追 悼 の 辞 

安藤ゼミナール同窓会      
      会長  後藤圭三 

 昨年の暮、突然先生はあの世へ旅立たれてしまいました。いつものように悪戯っぽいお顔で、どうだおどろいたか、とあの世で笑っておられるような氣がいたします。しかし、先生は、あの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の<精神>」の梶山力先生の翻訳を復刊された後、引き続いてウェーバーの「儒教と道教」の研究に取り掛かれました。これこそ、常に先生が掲げておられた現代的関心そのものの研究課題でした。そこからは、当然日本を含む東洋的問題の真髄が浮かび上がったのではないでしょうか。しかし、いまは、その期待に答えていただくことも出来なくなってしまいました。まことに残念であり、悲しみに耐えません。 
本学で安藤ゼミナールが開講されてから50年、まさしく半世紀になります。その間先生はひたすらマックス・ウェーバーを御研究になり、そしてその成果を私共に学ばせようと務めて来られました。その一端はこういうことではなかったでしょうか。先生の論文集「マックス・ウェーバー研究」の後書き
中で、種々の戦争体験を述べておられますが、敗戦直後の沖縄での御体験は特に印象深いものと思われます。先生は宮古島沖での掃海作業に通訳として参加されたのですが、ある米軍将校との対話が報告されております。そのとき先生は原爆の事を話題にされたのですが、はじめその話題をけていた将校がやがてガックリと首うなだれてこう言ったとのことです。「原爆投下はアメリカの歴史に拭うことのできない汚点をつけた」「あれはわれわれの罪である」。こうして彼は先生に対して、そして日本国民に、許しを乞うたとのことです。あの敗戦直後の事であり、先生は異様な感動を受けたと述べておられます。この時の深い感動が、先生にアメリカにおける近代市民社会の不滅の文化遺産を確信させたとの事でした。「(この体験にこそ)ウェーバーがくどいほどくり返した客観性ッハリッヒカイト=i即事性)すなわちヴェルトフライハイト=i価値感情に囚われない自由な精神)の見事な実例を見ることができたと思った。後にこの精神の原点を求めてウェーバーと共に予言の世界にまで関心が伸びていった根本動機には、この時宮古島沖で受けたショックが潜んでいるこのように先生は述べておられます。
 今ひとつ、先生の「ウェーバー紀行」のなかから印象深い一節を思い起こして置きたいと思います。先生はヤッフェ未亡人つまりリヒトホーフェン女史と会見出来たことを、最大の喜びと表現しておられます。会見された当時は既に95歳の御高齢でしたが、その昔ウェーバーの最初期の女子学生であり、終生彼女の夫共々ウェーバー夫妻と親しかったと言われている方です。そのリヒトホーフェン女史の証言として次のように述べられておりました。「私が丁度研究を始めた時、ウェーバーは私にこう言ったものです。君が真っ先に読むべき本は、アダム・スミス、リカルドー、それにマルクスの資本論≠セと。そう言って彼は分厚い三冊の本を自分の書庫からとり出してきて私に貸してくれました。」と。このエピソードは、勿論、ウェーバーの学問の根底にあるものを示唆しているだけでなく、安藤先生御自身が私共に、社会科学に向かいまず何から出発せねばならぬかを教えてくださったものと理解いたしております。
 安藤先生。貴方はひたすらマックス・ウェーバーを求められました。そして、ハイデルベルグの墓地に、当時ははっきり分からなかった彼の墓を探しに行かれたのは、象徴的な出来事だったと思います。先生の御報告によれば、たしかに分かりにくい所にあったと言うことです。だが、ついにそれを探しあてた時の興奮は私共にも伝わって参りました。このひたむきさこそ、安藤先生の学問への姿勢を示すものと言えるのではないでしょうか。
 私共は、先生とお別れするに当たって、是非申し上げたい事があります。先生の「ウェーバー紀行」の最後に、ウェーバーのミュンヘンでの葬儀の時、弟子のカップヘル男爵の読み上げた弔辞の一句が掲げられているのですが、それには、「彼の信仰はゆるぎなかった。ドイツとドイツの使命に対する、彼の信仰はゆるぎなかった」とあるそうです。私共も、カップヘル男爵にならって次のように先生に呼び掛けさせて下さい。 

     貴方の信念はゆるぎなかった。
     ウェーバーとウェーバーの学問に対する貴方の信念はゆるぎなかった。 

以上をもってお別れの言葉といたします
 

         平成11年1月30日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

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