更新日2003-3-8

仁平貢先生の戦死に思う

 
戸山小 第26回生(昭和19年卒)松平新太郎

 

 は58年前の1938年(昭和13年)戸山尋常小学校に入学しました。担任の先生は1・2年は4組で田辺先生。3年2組は音楽も教えて下さった武内久夫先生。4年の2学期から武内先生が結核でお茶の水の三樂病院へ入院されたので2組は他の3級に分散、私は厳しい飯沼茂雄先生の1組へ組入れられました。5年になって若い仁平貢先生。6年は長濱金太郎先生でした。

 私達2組は在学中二人の先生と悲しいお別れをしました。お一人は武内先生です。私達が6年の年(昭和18年)の夏に亡くなられ6年2組全員で高円寺のお宅へお別れに行きました。そして秋には4月に元気で海軍に入隊された仁平貢先生が南太平洋上で駆逐艦「嵐」に搭乗中戦死されたのです。生徒は新大久保駅前から一列に並んで戦友の胸に抱かれた無言の先生の遺骨をお迎えしました。戸山小で私達5年2組を1年間だけ教えられ出征されて僅か半年で戦死されてしまいました。お元気ならば同窓会で先生にお目にかかっていることでしょう。先生はご自分のことを「弱冠21才」とよく云われました。剣道を一年間あの講堂で防具を付けて大変厳しく武士の精神を指導されました。あの時の「弱冠21才」のお元気な仁平先生はもう居られません。鎌倉へ遠足に行った時大仏様の前で撮った5年2組の集合写真一枚だけが私の手許に残っています。

 思えば先生に教えて頂いた年の1942年(昭和17年)は「大本営発表」によれば連戦連勝の時代でした。しかし真相は4月18日に西大久保が爆撃を受け6月にはミッドウエイ海戦で日本海軍は大敗を喫し戦局は既に不利に転回し始めていました。翌年昭和18年6年生の年には2月にガダルカナル島から撤退、4月18日山本五十六連合艦隊司令長官の戦死。6年生5・6人で日比谷公園の国葬に参列しました。5月29日アッツ島玉砕。10月に学徒出陣・11月タラワ島玉砕と暗いニュースばかりでした。当時は食糧不足、全商品は品切れの上配給制で私達はお腹を空かして上履きもなく素足で運動場を走り回っていました。6年生になって味噌汁だけの給食が始まりました。昼食の時間になると味噌汁の香りが校舎内に漂いました。こんな中で長濱先生の授業が行われ受験勉強に入って行きました。良いこともありました。6年の春は高尾山へ遠足。頂上で全員笑顔の写真が残っています。8月30日一泊で箱根へ修学旅行。大涌谷で記念写真を撮りました。尚26回生は同期会で毎年6月に一泊旅行をしています。今年は修学旅行の時泊まった芦の湯の「きのくにや旅館」に宿をとりました。30名が参加・旧懇を暖めました。25回生までは奈良、京都へ修学旅行へ行きましたが24回生は時節柄取りやめ。26回生の私達はまだ幸いでした。そんな中、戦局は一層悪化の一途を辿っていきました。そんな時に仁平先生の悲報でショックを受けたのでした。

 私達は「軍国の少国民」として「神国日本」「八紘一宇」「大東亞共栄圏」へ「日の丸」の旗の下「欲しがりません勝つまでは」「米英撃滅」「一億一心」のスローガンが掲げられる中、教育勅語の授業を井上校長先生から受けました。又中学校へ入学してからは「軍人勅諭」で一層マインドコントロールされて「上官の命令は朕の命令と心せよ」との絶対服従の精神を強制した恐ろしい一節。配属将校以下教練の教師達は「朕・天皇」となって無抵抗の生徒を毎日殴っていたのです。敗戦の年の4月13日と5月25日の夜の空襲で私達は住み馴れた家を焼かれ「罹災者証明書」一枚だけを受取って焼かれ損の空しさだけが残りました。私達26回生は前線へは行きませんでしたが「銃後の守り」の一員に組み込まれ「学徒動員」で軍需工場や焼け跡整理に駆り出されました。私達は戦争で生き残った生命の持ち主です。思えば大日本帝国の最高責任者・大元帥陛下の戦争責任はどうなったのでしょうか。

 扨て、昨年発行の会誌「とやま」第17集に25回生の柳沢肇氏の――戸山小学校の一考察「自治の旗」をめぐって――の格調高い論文の記述が掲載されています。その中で氏は大正デモクラシーの時代に創立された母校が自由と民主主義の思想をバックに創作された校歌のすばらしさと唱われ続けていた校歌がその後昭和16年に国民学校と呼ばれる頃から正式には唱われなくなったこと。これは狂奔する軍国主義・フアッシズムの波の下に有無を云わさず押し流されてしまったためと明言されておられます。そして恐ろしい言論統制は1945年8月15日の敗戦・解放の日まで続きこの間戸山小学校から校歌は消えていたのです。現在母校では声高らかに自治の精神を掲げたこのすばらしい校歌が正式に唱われています。しかしこの校歌も再び唱われなくなる危険性が無いとはいえません。因みに文部省は「日の丸」を掲げ「君が代」を唱わせることによって忠君愛国の復活を夢見ています。そして再び「奉安殿」「御真影」に最敬礼し教育勅語奉読が復活する危険性を誰も否定できません。

 戸山小学校の自治の精神を掲げた校歌は戦争中の約四年余りの間正式に唱われず忘れ去られていました。そしてこのすばらしい校歌が唱われ続けられるとすればそれは日本の国に「自由」がなければなりません。校歌の歌詞の「自治」を「自由」に置き換えてみる時、この校歌は戦中の教育を受けた私には極めて崇高な意味を帯びてきます。「自由の旗を見よや見よや」「自由の鐘は鳴るよ鳴るよ」「自由の花の咲くか咲くか」

 53年前に無念にも戦死された仁平貢先生のご冥福をお祈りし永遠に平和が続くことを祈念しつつ。

                      1996年8月15日

 

☆ この回想文は、松平新太郎氏(政経3年次)の「安藤思想継承の証」として   同窓会誌「とやま」から転載させて頂きました。

以上

 

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