更新日2003-10-14

「気」のパワーを発揮される中国通の政経4年次廣瀬行夫氏から、トルファン行きの話が出たので、その場で貴殿こそ打ってつけと「旅行記」を依頼致しました。
儒教と道教を学んだ同学の士でもあるので、尚更その気持を強く持ちました。
ホームページオープン1周年を飾るに相応しい内容の「ホット見聞記」をお寄せ頂き、満腔の謝意を表します。

                敦煌、莫高窟

                                              政経4年次 廣瀬 行夫
ニューマネジメント・クラブの分科会の一つ、アジアビジネス研究会では今年の9月11日(木)から21日(日)の11日間、中国シルクロードの視察旅行を行った。
今回の旅行での圧巻はなんと言っても敦煌、莫高窟の見学であった。莫高窟だけで丸一日を割り当て、幹事が事前に色々調べ、最も適切な洞窟を選んで見学させてくれた功績が大きい。しかも特にここでは一番といわれる学芸員の懇切な説明を受けることが出来たことも理解を更に深いものとさせた。
莫高窟は敦煌市からも離れて砂漠の中のオアシスにあり、西暦4世紀半ばに創建されてから、主な交易ルートが陸から海に変わる14世紀までの約1000年間に亘り掘り進まれ、莫高窟の周囲に掘られた東西の千仏洞などを含めると、現存する洞窟は492個所、壁画4500平方メートル、彩塑2400余身、木構造の洞窟5個所、絹絵約1000幅、各種の写本文4,5万件、さらに染織、刺繍など膨大な文物が保存されているとの事である。
勿論、自然による破壊、盗掘、イスラム教徒による破壊、調査団と称する人たちにより絵画を剥がして、持ち去られたものなど、数々の苦難にさらされ、失われたものも数々あったが、来る前に想像していたよりは保存状態もよく、一部の色彩も見分けられる程度に保存されており、東西の文化の交流がここに凝縮されている様に感じた。シルクロードでの旅の無事を祈る気持ちからか、良い来世への生まれ変わりを祈るためか、いずれにしても、宗教にはこれだけのものを造らせる強烈なエネルギーがあるのだということを如実に感じた。
今は東西の人の交流が主に空や海、情報は電波を利用して瞬時に行われる時代となり、その意味では、シルクロードの価値が変わり、これを見る人も宗教的興味をもって見ている人は、ごく一部の方であり、その他、歴史として、或いは学術、芸術として見ている人もいるが、多くは観光として見にきているのだろう。旅行業者は旗をたて観光客を連れて大声で説明しながら、莫高窟を行ったり来たりしていた。特に珍しいものは特別室と称し、別料金を取り、敦煌、莫高窟は中国の大きな観光事業の一つとなっている感じである。
しかし、そうではあっても今回の莫高窟で現物を見ると、遠くギリシャからシルクロードを通って文物が日本まで伝わってきた様子が良くわかる。日本で有名な高松塚古墳の絵画を始め、数々の仏像彫刻との類似性、日本の伎楽、散楽、舞楽、田楽などの諸芸を始め、結構高度な技術、文物、芸術が日本まで伝わった様子がよく理解され、視野が広がった感じがした。
最近、アレキサンダー大王の東西交流展を始め、日本ではシルクロードに関連したものが、テレビや展覧会などで紹介されることが多く、今回の見学により、それらを総合して理解を深めることが出来た。

                      西安で感じた事

中国の変化は、毎年8%程度、成長しているため激しい。臨海地方だけでなく、開発が遅れているといわれる今回の旅行で回った西部の各地でも成長への変化を感じた。特に西安の街の改造は激しく長安の昔を偲ぶものは城壁しかなくなっている。それも完全に観光の対象として存在している感じである。中国の代表的民家、四合院なども見当たらず、城壁とアンバランスにビルの高層化が進み、西安の南部地区には広大な工業団地の開発も進んでいた。もう、空海が訪ねた長安の面影は薄れてしまっている。
                    長安が西安となり月わたる   邊邊
我々は西安では長安城堡大酒店(ANAグランドホテル)という南門のそばのホテルに泊まったが、朝食の時、ウエイトレス長らしき人に西安ではこのホテルが一番いいのかと聞いたところ、2,3の横文字の名前のホテルを挙げ、このホテルの立地はいいですが、「このホテルももう10年たちますから」そちらの方が新しいから設備はいいですとの事だった。5000年の悠久の歴史を誇る中国で「もう10年たちますから」というようなセリフを聞くとは思わなかった。それだけ最近の中国の変化は激しいのだろう。
芸能の世界でもそれを感じた。西安の唐楽宮で「唐宮楽舞」と称する音楽のショウを見学した。唐の楊貴妃と玄宗皇帝を題材にした舞台の様だが、中国の京劇、雑技など色々な要素を取り込み、それにバレーその他西洋音楽の様式も取り入れ、一般受けを狙った華やかなものであった。中国の古典的ショウを期待していた人には、これはなんだということになるであろうが、良い悪いは別としても中国の音楽、舞踊がこんな風に変わってくるのかと、飽きずに見ることができた。
中国は改革、開放政策で、西洋の文物を盛んにとりいれている。まさに現代のシルクロード東西の交流の様にも感じた。そういえば、10年前と比べ街にあるトイレなどは大変よくなっていた。一頃前は、中国もいいが、トイレが汚くてと、特に女性の人は言っていたが、まだ汚いところはあるにせよ、格段に改善されているのに驚いた。

                       トルファン印象記

今回の我々の旅行で、敦煌からトルファンまでは夜行寝台車で行った。
トルファンに着いたのは予定時刻より15分ほど早く、朝6時少し前であった。あたりはまだ暗い。早着もあるのかとガイドに聞いたところ、時々あるとのこと。しかし、遅れることもあるとのこと。言うなればいい加減という事だろう。
外の温度は15℃くらいだろうか。我々の荷物は別便で送ってしまうということを知らず、昼間30℃以上の敦煌で過ごした半袖のシャツのままであったので寒い。仲間のウインドブレーカーを借りて寒さをしのいだが、日が昇るとすぐ暖かくなった。
ここには、「朝綿入れ、昼薄着、夜ストーブ」という諺があるくらい寒暖の差が激しい。今日も日中は30℃くらいまで温度が上がった。しかし、乾燥しているのであまり暑さは感じない。

7~8月は特に暑く、平均40℃、50℃になることもあるとのことである。我々にとって幸いなことに今年は、例年に比べ、9月としては涼しい様であった。トルファンの北側にある西遊記で孫悟空が鉄扇公主と戦った舞台となった火炎山の山肌の赤いシワは、陽炎で炎の様にゆらめくとのことである。
というのはここ新疆ウイグル自治区の海抜は平均で1000メートルあるが、トルファンは海抜6メートルから16メートルしかなく、とくにアイチン湖はマイナス154メートルで世界でも2番目に低い陸地である。従ってこれから行く西のウルムチでは雪が降るが、ここトルファンでは冬でも雪は降らない。しかし風は強く吹くことがあり、この4月には貨車を倒したこともあるとの事である。
朝6時でも暗いのは時差のせいである。ここ新疆ウイグル自治区では中国本土と2時間の時差があり、ウイグル人はそれを使っている様だが、官庁やホテル、汽車の時間など中国人社会では中国本土の時間を使っているため、今9月頃は、日が昇るのが8時頃で、夕方も8時頃まで明るい。ここでは、結果的に一年中夏時間ということだろう。
駅を出るとまず目につくのが、敦煌までは経験しない色々の民族の服装と顔であった。ここ新疆ウイグル自治区には30種類以上の民族がおり、ウイグル族800万人を始め、回族、漢民族、カザフ族、モンゴル族などがともに生活している。
街で見る看板も多くがウイグル語と漢語が併記されている。ウイグル語はアラビア文字から作ったとの事で、我々には、ウイグル語とアラビア語の区別は分からない。
ホテルで、一服し朝食をとるため食堂にはいると中国各地からの観光客で一杯だった。例によって騒々しい。中国は毎年年率8%以上の成長率を続けており、従って一部の人たちの生活も格段によくなり、今まで外国の観光者が多く利用していたホテルも、エイズの後遺症からか外国人客が減り、その穴を今は中国人客が埋めている様である。
朝食のあと、前漢の時代車師前王国の王都として栄えたという交河故城、西暦638年に西遊記のモデルとなった玄奘三蔵が立ち寄ったという高昌故城を見学した。日干し煉瓦で修復されたところもあるが、ほぼ土の塊で、ここがお寺の跡、官庁の跡、ここが民家の跡などと説明を受け、往時を偲ぶ程度である。NMCのこの旅行で数年前行ったトルコのエフェソスの遺跡の方が石造りのためまだ原型をとどめているのが多くあったのを思い出した。
故城見学の後訪問したベゼクリク千仏洞は、ウイグル語で「美しく飾られた家」といわれるくらい繁栄の様子が一部の壁画から伺われたが、ウイグル人が13世紀よりイスラム教に改宗してからは破壊が激しく敦煌、莫高窟の見学をした後では見劣りがした。
しかし、そこへ行く途中、石油の掘削現場、といっても無人の数多くの掘削機がひたすら石油をくみ上げているだけだが、現場を始めて見る事が出来て、大変参考になった。この新疆ウイグル自治区は石油、石炭、天然ガスの産出が中国全体の3分の1を占め、その他、希少金属も産出する将来とも有望な土地である。
この他、高昌王国時代の王族や貴族の古墳群があるアスターナ古墳も見学した。数百もある墓の中の3ケ所を見ただけだが、墓の中から発見された陶器、貨幣、絹織物、文書などがミイラとともに展示されていて、前漢時代の生活の一端を偲ぶ事が出来た。
トルファンはきれいな街である。信号は少ないが道路の幅が広く、砂漠の強い風を防ぐために植えられた ポプラ並木が続いている。ポプラの木は数年間で20メートルに成長するそうで、家具、葡萄の乾燥室の建設その他にも利用されている。数年前出来たという葡萄棚で覆われた「青年の道」も南北に貫いており、散歩すると気持ちがよい。大きな工場も少ないせいか、西安やウルムチに比べて空気もきれいに感じた。
この街では車がそれほど多くなく、どういう訳か驢馬車がのどかに走っていた。高昌故城を見学したとき驢馬車に乗った。私が乗った驢馬車の座席の横にウイグル人らしい可愛い女の子が飛び乗ってきた。「日本のどこから来たの」と話かけてきた。また、何か売りつけられないかと警戒しながら「東京、日本語うまいね」と答えると、「こういう仕事をしていると日本語も自然とうまくなる」との事である。女の子は手に女物のバッグを沢山かかえていたが、私には特に売りつける気配はない。
「ねえ、この驢馬は"頑張れ"という日本語が分かるんだよ」「加油(チャーユー)か」「そう」この15歳の女の子は中学校に通っており、小学校のときから週7時間中国語を習っていたので中国語も達者な様である。
歳をとったためか「頑張る」という言葉はあまり好きになれない。この驢馬君も、頑張ると、何かいいことが、あるのだろうか、人参でももらえるのだろうか。驢馬は高昌故城の中の、2,3キロのでこぼこ道を荷台に乗客10人位を乗せてひたすら往復している。観光客が多い時には15人も乗せるそうである。この驢馬はおとなしく、よく見ると可愛い顔をしているので、鼻でもなでようかと思ったが、余計な事をして噛み付かれたりすると笑いものになるので止めた。
このトルファンは砂漠の中のオアシスで、雪を戴く天山山脈の雪解け水を利用するため地下数メートルから数十メートルの井戸が千くらい掘られており、それを「カレ−ズ」というペルシャ語で「地下水」を意味する水脈で結んでいる。この水は生活用水のほか、葡萄、楊貴妃が好んだといわれるハミメロン、梨などの果物や、綿の栽培に利用している。この「カレ−ズ」も見学することができた。地下に狭い横穴を掘り進みその掘った土を井戸から出す作業は当時大変なものだったろう。よくまあ、こんな横穴を掘ったものだと感心した。
この辺の農家には干し葡萄用の乾燥室をもっているところが多く、ここは日干し葡萄の一大産地である。街の各所に四角い乾燥室が見られた。また、日本ではほとんど見られなくなった一面の綿畑にも懐かしさを感じた。
ウイグル族の人たちは歌と踊りが好きな様である。初日の夕食の後、昼食の時、或いは葡萄園の中などで彼らの歌や舞踊を見た。西域の色々な踊りをミックスした様なテンポの早いクルクルまわる踊りの中に、ペルシャやトルコ風のベリーダンスなども入っていた。
今はだんだん少なくなった「四合院」と呼ばれた中庭のある中国の典型的な民家の造りを模したレストランで昼食をしたとき、我々日本人向けに「四季の歌」や「北国の春」などを美しい声で歌ってくれた。ここの人たちは長寿だとの事である。豊富な果物を食べ、陽気に歌や踊りを楽しんでいるため、長寿なのかもしれない。
夕方のフリータイムを利用して、仲間4、5人でトルファンの街を散歩していると数多くの屋台がたち並んでいるところで、たまたま我々のスルー・ガイドの史さんと会った。使った皿をよく洗わないから「C型肝炎になるぞ」などとおどかされていたため、屋台では食事をしないことにしていたが、史さんに会ったため、急にここで夕食を取ることになった。ビール、肉入りの揚げたナンの様なもの、シシカバブー、水餃子、焼きソバなどを好きなだけ食べて一人10元(約150円)しなかった。庶民の生活費はまだまだ安い。
ここではウイグル人や中国人が仲良く屋台のテーブルを囲んで食事や団欒をしているようだった。史さんに「ウイグル人や中国人が仲良く食べている様ですね」聞いてみた。「そうですよ」「でもこの地域は石油、石炭、天然ガスの産出が多いので中国が手放さないということも聞きますが」「ここは前漢の時代から中国の領土ですよ」「しかし、その後色々な民族が支配しましたね」「中国全体も蒙古族や満州族が支配したこともありますので、色々ですよ」「でも中国はチベットでは相当弾圧したとも聞いていますが」「それはアメリカの宣伝ですよ。アメリカは911事件で大変な目に会ったのは分かりますが、だからといってアフガニスタンやイラクで人々を殺す理由はないでしょう」ここではアメリカの評判はひどく悪い。
「辺境の民族は漢民族と比べ、大学入試でも合格点数で優遇していますし、彼らには一人っ子政策も適用されていません。逆差別ですよ。」
しかし、40年~50年前人民解放軍として漢民族多数が入居して、現在漢民族は650万人になっているのも事実だろうが、これ以上政治の話をすると、明日からのガイドにも影響があっても困るので止めた。
しかし、10数年前の中国ではこういう話をするとガイドはあたりを気にしながら、政府の公式見解を話すだけだったが、ここでは、史さん自身の考えを聞けたような気がして好感がもてた。中国の言論も次第に自由になっているのだろう。


(地図:東方観光局より)

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