更新日2004-10-4

森谷仁朗

寿命について


安藤先生が平均寿命で旅立たれてから、はや六年が経ちましたが、私もその年齢に残すところ五年になりました。寿命の二字が、年毎に重みを増して来ます。

生命科学者、柳沢桂子さんは、死(寿命)について、「80年も生きれば細胞の中のDNAにうつしまちがいや傷がたまるはずです。それをふたたび使うと異常なDNAがたまり、人類の滅亡につながるでしょう。死ぬことは、こういう意味があるのです。生物学的にこのような意味があると分かっても、死ぬのはこわいし、親しい人との永遠の別れは悲しい。」と説明しています。

確かに私たち人間は、生物学的存在であると同時に社会的存在です。鮭のように産卵を済ませれば、全てが終わりというのでは、人間の死として納得しかねます。「科学的」には、人間も動物ですから「世代交代」が死の意味でしょうが、それで、人間特有のこわさや悲しさの情緒が救えるわけではありません。人間も細胞という「物」で出来ていても、単なる物でなく「生き物」ですから死が必ず訪れます。その点、今は合理主義の時代なので、科学の発達によって死の定義が変わり、脳死を死と判定するに至りました。しかし、科学は「事実」を説明出来ても、生と死のあるべき「意味や意義」は教えられません。科学はあくまで科学で、科学が全ての社会は「虚無」の世界です。

そもそも人間の死自体自分の意思でなく、しかも経験や意識することは不可能で、他人の死を通して私たちは自分の死を想像します。だから、人間の死は生物学的に自分一人が、物質に還元されるという一面的解釈でなく、「人と人との間で生ずる社会的出来事」でもあると見るべきでしょう。寿命の寿には、「長生きと年・命とことほぐ」の三つの意味がありますから、私達の先祖は長生きをことほぐ意味で、寿命を造語したのかも知れません。そして相手とのつきあいのあり方が、死後に地獄行か極楽行を決めると恐らく考えたのでしょう。

所で、寿命をこのように個的出来事として見るか、類的出来事と見るかは、その人の価値観が基にあるためと思われます。因みにウェーバーは人間を「個的存在」の視点から、マルクスは「類的存在」から見たとされています。大切なのは視点のあれかこれかではなく、対象へのスポットのあて方で、浮かび上がる意味が異なって来る事です。同じ存在でも、視角が生物学的存在・個的存在・類的存在と別々であれば、自ずから出て来る意味も異なります。その内容の保証は、論理的整合性・客観的公正さにかかっています。

寿命(死)についてウェーバーは、“古代の農民が「生きることに満ち足りて」死ぬことが出来たのに対して、終わりを知らない近代の「文化人」や「教養人」は、「生きることに倦む」ことはあっても、「人生に満足する」ことはありえない。”と述べています。更に“「文化」なるものはすべて、破滅的な意味喪失へ導かれざるを得ない。”と悲劇的状況を浮かび上がらせています。しかし、一方ウェーバーは、「客観性論文」の中で「総じて我々近代人は、それ自体意味を持たない世界生起に対し、その意味と意義を与えなければならない。それが認識の木の実を食べた一文化期の宿命」と力説しています。であれば、益々意味喪失する文化人に「意味ある寿命」を望むこと自体矛盾となり、オルタナティブの中でしか、意味や意義を与えられない事になります。安藤先生は、かつて否定の中に肯定を見出すべきだと指摘されましたが、このウェーバーのペシミズムの背後には、文化創造の期待が秘められているのでしょうか。そうだとすれば新文化は、合理性追求の科学と非合理性探求の宗教との接点にあるやも知れません。それは正に私達の課題です。

始めである生も終わりである死も、自分の自由意志でなく偶然で、生まれたくて生まれたわけでなく、死にたくて死ぬわけでもありません。私たちは非合理な生かされた存在です。それでも生と死の「意味」を求めないでいられないので、あれこれ「物語」を創り出します。この物語の方法が遂に破綻したので、今や価値転換の只中に置かれています。私たちは「文化」が第二の本能になりましたが、所詮人間されど人間ですから、科学で全能の神に代わったなどと自惚れないで、お互いが凡夫である存在を先ずは認め合う。そんな「謙虚さ」を身に付け合えば「意味ある寿命」が、迎えられはしないかと期待?しています。                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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