安藤思想を学んで現代を考える

更新日2004-10-10

森谷仁朗                                        

 勉強会のあり方について私はスタートの時点から、「主体的価値理念の立場」を回避した主知主義の誘惑を警戒し続けて来た。この度安藤先生の二論文を基に「安藤思想を学んで現代を考える」をテーマとするに至り感概無量である。

 さて、安藤思想の原点たる「非キリスト者のキリスト的考察」について、私は「非キリスト者のプロテスト論」と読んだ。そして30年後の「キリスト教と日常倫理」を「日常生活の倫理的合理化論」と理解したが、その首尾一貫性には圧倒された。そしてカルチャーショックでもあった「営利心」と「倫理」が結びついた、西欧の「近代」資本主義の特質もより理解出来た。

先生は、その資本主義も今や営利追求が自己目的化し、人間疎外を齎すに至ったので、今後我々はそれに対し、絶対無条件な人間愛に徹し、殉教をも覚悟のプロテストを貫くべきだと呼びかけられている。そして、その具現である「民衆の日常生活の倫理的合理化」には、起動力となるエートス(パトス)が第一で、決して論理(ロゴス)が先行するのではないと指摘されている。これこそ「行為を究極において支えるものは理論ではない」とする安藤思想の原点である。であれば価値理念抜き、問題意識なき「知のための知」は、ウェーバー読みのウェーバー知らずと断じられて然るべきであろう。

 所で、当初の論文は「その生涯を悲劇に了らせても、普遍性たる人間性の未来に捧げるべき信仰を持とうではないか」と結んでおられる。私はこれをタテマエでは立派だと理解出来ても、弱者が強者に正義をプロテストしても、現実の組織内では反感を買い、孤立死するケースが大いにあり得るので、ホンネでは受入を危ぶんだ。しかし、先生は次の論文で「ネガティブの中からポジティブなものを引出せるならば、伝統を覆すに足る大きな変革も呼び起せるという可能性があり得る」と論を進展されている。つまり、プロテストがネガティブな不平不満でなく、信念に基づく高次のそれであれば、必ずしも殉教で終わらないとの意味にまで、論を進展されているので、プロテストの意味を思い直すに至った。   
次に「神対人間」の問題を両論文共提起されているが、前者の論文では「近代社会の行詰りは神を見失ったのでなく、人間への信仰不足が問題」との見方を披瀝。他方後者の論文では、「内から人間をしばる倫理は、人間というものの存在を超えた力があって、それから命令がくる時以外には考えられません。」として、超越神信仰を極めて重視されている。その内面を支える信仰を見失った結果、近代社会は深刻な「ニヒリズム」に陥ったと私は読み直したい。宗教は阿片にもなれば変革にもなると言うべきか。従って、先にあげた「倫理論文」にしても読むべきポイントは、神への「倫理」が世俗の「営利心」と結びついたパラドックスの宗教社会史にあると思われる。要すれば、安藤思想の核心は「体制変革のプロテスト思想」にあると言えよう。

 その安藤思想が、遺憾ながら、今なお民衆と結びつかない理由は何か。その一つは、後進国ほど反体制側に立つ良心的インテリが多いにも拘らず、教養が伴う「強いエリート意識」が災いし、維新後孤立した暗い歴史を持つ事。二つには、民衆自身が、不平不満を鳴らしても、それはお上への訴え・依存でしかなく、社会システムを所与とする「政治的未熟」が支配している事。私はこの変革を内部的に阻んだ「インテリと民衆とのへだたり」についての自己批判を、安藤思想の「検証」にすべきだと考えたい。

知識はあくまで知識で、知識をどう重ねても人間自体、現実自体は変えられない。再度だが「日常生活の倫理化の実践」が安藤思想の要である。先生が孤高のうちに鬼籍に入られた背後に、私たちはこれの継承を願った「思想」が、民衆に届かなかったペシミズムを見てとるべきだろう。

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