於桜祭り2005-4-3
政経4年次 広瀬行夫
イ タ リ ア 旅 行

ローマには10年と15年ほど前に、2回行った事がある。最初は家内と子供たちも一緒の旅行でヨーロッパ各都市のパック旅行でイタリアはローマだけを訪問した。2回目はスイス、フランスに行く途中ローマに立ち寄ったと記憶している。しかし、古代エトルリア文明、ローマ帝国時代そしてルネッサンスの文化発生の中心都市の数々、ローマ以外の、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなど北イタリアの各地を、是非訪問したいと思っていた。
というのは、アジアの各国は私の所属している会「アジア・ビジネス研究会」で毎年1ケ国を選んで行っているが、欧米はここ10年位旅行していなかったからである。出来れば家内も一緒に連れて行きたかったが、家内は健康上の理由で長い航空機の旅ができない。そこで、私の年齢や体力などを考えると行けるときに行った方が良いと考えた訳である。
たまたま、NMCのアジア・ビジネス研究会でお世話になったグローバルという旅行業者のパックツアーで2004年4月24日(土)〜5月3日(月)10日間、ローマ、オルビエート、アッシジ、シエナ、サン・ジミニャート、フィレンツェ、ヴェネツィア、ベローナ、ミラノ、コモなどの各都市をバスや列車で廻わる企画があったので、この期間なら他の予定を多少犠牲にすれば、参加できると考え、申し込みをすることにした。特にヨーロッパはEUになって以後始めての旅行となった。
4月末から5月初めにかけては、イタリアでも最も良い新緑の季節でマロニエ、アカシア、リラなどシャンソンに歌われているなど花々が咲き乱れており、このほか日本でもおなじみの躑躅、石楠花、藤などの花々、緑の野原には、菜の花などが咲き、葡萄も緑の可愛い芽を出していた。
今回の旅行でローマや、ヴェネツィアで多少雨にあった程度で、旅行全体を通じて天候に恵まれた。従って、バスや電車の車窓からの田園の春を満喫し、美しい都市建築、彫刻、絵画などを訪ねて、結構歩く距離の多い旅であったが、同行者に一人も体調を崩した人もなく、ほとんど予定どおりの日程で廻ることができた。帰り、5月1日のメーデーはミラノの街もデモ隊が歩いており、丁度アリタリア航空のストに遭いミラノ空港は大分混乱していたが、幸い帰りの便はアリタリア航空とJALとの共同運航のため難をのがれることができた。
同行11人のうち、1人の参加は私一人だったので添乗員には自由時間はいつも一緒に行動していただき、大変お世話になった。次回からイタリアで感じたことを書いてみたいと思う。
物価高
旅行中の5月1日からはEU加盟国も10カ国増え25ケ国となり、ヨーロッパのほとんどの国でユーロが通じるのは便利になったが、最初に感じたのはイタリアの物価高だった。
今まで宗教的な場所として無料だった寺院も場所によっては、入場料を取る様になり、ここ2、3年で入場用を値上げしたところも多くあった。これは日本の神社、仏閣も同じで、観光客相手に取れるところから貰おうということかもしれない。美術館の入場料も年々高くなっている様だ。フィレンツェのボッティチェリの「ビーナスの誕生」の絵画がある事で有名なウッフィツィ美術館で日本人の現地ガイドが、「いっぺんに入場料を3ユーロ(約400円)も上げるなんてひどいでしょう」などと言っていた。
ベニスの乗り合いの水上バス(ヴァボレット)が5ユーロ(650円)アイスクリ−ムをBARで座って食べたら10ユーロ(1300円)請求され驚いた。映画、旅情の1シーン、ヴェネツイアのサンマルコ広場でキャサリン・ヘップバーンがコーヒーを飲む場面があるが、そこでコーヒーを飲んだらやはり10ユーロプラスチップを払わされた。ペットボトルの0.5リットルの水も0.8〜2ユーロ(110円〜260円)していた。
今回の旅行はパックでその時、直に支払ったわけではないが、ベネチアの総督府を改造して作られた豪華な内装のダニエリ・ホテルのビュッフェ形式の朝食が50ユーロ(6500円)ミラノで泊まったウエスティン・パレスの朝食も33ユーロ(約4300円)が表示してあったのには驚いた。
フィレンツェで何か簡単なものを食べようと、添乗員のNさんと日本でもよくある町の中華料理風の店に入り海鮮麺を食べた。麺はスパゲッティみたいな感じだったが、中華風の醤油味で味はまあまあだった。こんな店でと思ったが、テーブルチャージがついていて10ユーロ(1300円)以上とられた。
ベニスで簡単で安くて、おいしいところという希望でNさんに連れて行ってもらったレストランSan Travassoは、ホテルから行くとグランド・キャナルの対岸にあり海の幸をふんだんに使い結構おいしく費用も10数ユーロ(2000円弱)で満足したが、船代が10ユーロかかってしまった。
毎年、アジアの旅行で物価安に慣れていたし、またあまり買い物もしないので、少額しか現地通貨に両替しないくせがついていた。そのため、ホテル着く毎に両替することとなってしまった。消費税の高いのも影響しているかもしれないが、これなら、ここでは「ご旅行は物価の安い日本へ」と宣伝に使えそうだ。
旅行の楽しみ
旅行の楽しみも人によっていろいろあると思うが、私はなんといっても、その国の人や文化に直に接しその国を理解する事だと思っている。そのため出来ればその国の言葉を使い、困ったときは英語で話す様に努力した。また、特に、イタリアは長い歴史を背景に文化や美術に見るべきものが多い。
一般の人が美術品を売ったり、買ったりするのは最近の事である。それ以前の庶民は金銭的に余裕がなかったため、建築物、美術品の大部分は当然、当時の支配者の保護の下作られたもので、従ってその建築物、美術品類を見ることにより、その支配階級の様子や歴史が分かる。同時にその逆にその背景の歴史を知れば、その時代の建築物、美術品の理解が深まってくる。特に、宗教画や宗教関係の彫刻は製作者の感情表現よりも、文盲の庶民にも宗教を分からせようとした意図が感じられる。
私は、イタリアの建築、美術に詳しいわけではないが、添乗員のNさんは若いのに、美術、音楽などにも結構造詣が深く、いろいろ教えてもらった。
オルビエート、アッシジ、シエナ、サン・ジミニャート、フィレンツェ、ヴェネツィア、ベローナ、ミラノ、コモなどイタリアの都市をまわると、イタリアの各都市は小高い丘上に城壁をめぐらし、ドゥオーモを中心に街を形作っているところが多い。どこのドゥオーモもその正面に一番の見所ファサードがあり、ドゥオーモの中には多くの精巧且つ巨大な宗教的絵画、彫刻などの美術品を有している。こういうものを見ていると、キリスト教の影響が如何に絶大であったがわかる。その典型的なのが、ドゥオーモと教会付属設備だけで国を作っているバチカン市国であろう。
また各都市の多くは高台にあり、その巨大な城壁を見ると、都市同士の争いの歴史も肌で感じることができ、歴史的にイタリアの統一が遅れた理由が分かる様な気がした。
キリスト教と関係なく、巨大な建物の典型的なものはなんといってもローマのコロッセオだろう。周囲約527m、高さ48.5m、収容人員約5万人という巨大な建物が西暦80年、日本では弥生時代に征服民の奴隷により8年間で作られたのだから驚くべきであろう。そしてここで、今度は奴隷の剣闘士同士、或いはライオンと剣闘士などと戦わせローマ市民はそれを見物していたという。ローマの平和がこんなことで成り立っていたのがよく分かる。
この巨大な建造物の屋根はどうしていたかというと、当時は上に麻の天幕を張っていたそうで、それを引っ張っていたロープを止めていた石と輪がコロッセオの外側に並んでいた。
観客席に登るとアレーナと呼ばれる床が見下ろせる。もともとここは板張りでそこに砂を敷き詰め、血で染まったら新しい砂と入れ替えていたと聞いて、何かぞっとする感じがした。
面白いのは、1階に貴族のためのVIP席があり、お家ごとに名前が彫ってある。しかし、貴族間の抗争が激しく、勝つと宿敵の名前を削り、自分たちの名前を彫りなおしていたため、だんだん石が薄くなっていったとのこと、いずこの時代でもこんな権力闘争があったのであろう。
最後の審判
ある人が「最後の審判」を見落としたと残念がっていたので、あまり美術解説書には書いてない日本人ガイド・Kさんから聞いた「最後の審判」にまつわる話を書きましょう。
ベテラン現地ガイドのKさんの指示で我々はホテル側に無理を言って6時半に朝食を用意させ、7時15分にホテルを出発、8時20分前にはバチカン博物館の前に着いた。その後、10分位であっという間に長蛇の列となった。早起きのため、我々はバチカン博物館を予定通り、見学することができたわけである。
「最後の審判」を描いたミケランジェロは同性愛者だったそうである。常に若い美少年をはべらしており、メディチ家のある女性から求愛されたのも断ってしまった。そのため、当時絶大な経済力をもっていたメディチ家は援助を打ち切ってしまった。やむをえずミケランジェロは教会に援助を頼んだ。そこで当時60才になっていたミケランジェロが頼まれて描いたのが「最後の審判」という約400人の人物がうごめく壮大な絵画であったとの事である。「私は彫刻家であり、建築家で、絵など描きたくない」といっていたミケランジェロも金のために描かざるをえなかったとのことである。それにしても壁面一杯からすごい迫力を感じる。
絵はフレスコ画で描かれているが、フレスコ画は壁を塗ってその壁土が乾く間に絵を描いて顔料を壁土にしみ込ませる方法をとっているそうである。そのために年数がたっても絵があまり色褪せない特徴がある。しかし、壁土がすぐ乾くので、大作の場合、通常は師匠が原画を描き、それに基づいて弟子たちが手分けしてフレスコ画を描き、後ろで師匠が指示するという方法をとるのが、一般的の様である。しかし、ミケランジェロは金に困って描いたからか、或いは潔癖なためか、一人で全部描いた。そのため、壁を塗っては描き、また、壁を塗っては描いたためその継ぎ目の線が薄く見える。なるほど!そんな経緯だから、司教が何だかんだと注文をつけてくる。ミケランジェロはうるさいとばかりその注文をつけた司教を「船を漕ぐ悪魔」のモデルにしてしまった。いくらなんでも司教を悪魔のモデルにされてはたまらないと、他の司教に頼んでそれだけは止めてくれと言わせたところ、ミケランジェロはその頼みに来た司教を「地獄に落とされた人」のモデルにしてしまった。気の毒に、その司教たちはショックで病気になり死んでしまったそうである。なお、ミケランジェロ自身は殉教者のはがされた生皮の顔の部分に自身の顔を描いている。
ところで、この修復にはある日本の企業が、多大の貢献をした。というと聞こえはいいが、実は修復の援助をしてもらうスポンサーを得るため教会側が多くの企業を集めて説明会を開いた。ところがその修復のやり方の説明を聞いている間にこれは大変だということで、ほとんどの外国の企業は逃げ出して、日本のある放送局だけが残ったそうである。そのため、この企業は多大な負担をさせられたとのことである。いうなれば、トランプのウスノロマヌケにされたということらしい。
その修復の時の話。真ん中のキリストの隣にいるマリア像は最初裸だったそうである。ところが後に、マリア様を裸で描くなんて、ということで、青い腰布が書き加えられた。ところが、修復のとき、その青色を間違えたのか、なにか不自然な色に描かれているとのことである。機会があればご観察下さい。
なお、バチカン博物館というと当然、宗教画の名品を考えるし、またその通りであるが、ローマ時代の彫刻や美術品も結構ある。これは、第2次大戦の時ムソリーニが美術品の戦争による破壊を恐れて中立国のバチカンに移させたものだ。それで多くの美術品が戦火から免れたわけだが、戦争が終わってもバチカン側は美術品を返してくれない。そのため、ここにはローマ時代の名品も数多くあるとのことである。ところが、丁度我々の旅行中に、日本でバチカン博物館のローマ美術を集めたローマ美術展を開催しており、そちらに大分貸し出していてここでは見ることができなかった。マンマ・ミーア!
ダビンチとラファエロ
前回ミケランジェロの話をかいたので、今回はミケランジェロと並んで、ルネッサンスの三大巨匠といわれたレオナルド・ダビンチやラファエロについて書きたいと思う。
ミラノのサンタ・マリア・グラッツェ教会でレオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」の絵を見た。予約してその15分前までに行かなければ見せないという事で予定の30分前には行き、予約した18:15丁度に入場という厳格なものだった。
ダビンチは、フレスコ画では描きながら修正することが出来ないということでこれをきらい、色を重ねることが可能な絵の具に玉子などの溶剤を混ぜたテンペラ画で、この「最後の晩餐」の絵を描いている。そのため絵の中の人物の動き、迫力はよく捕らえられているが、すぐに剥落が起こりボロボロになってしまったらしい。その後、この教会は戦災にも会いこの状態では修復は無理だということで、何回もあきらめかけていたものを20年かけて努力し、修復したとのことである。
「汝らのひとり、我を売らん」という言葉がキリストから信者たちに発せられた瞬間をとらえ、信者たちが動揺するさまを見事に描きだしている。「一体誰なのだ」というささやきが聞こえる様に感じる。そして金の袋を握りしめた、ユダだけが光があたらないように描かれている。
一方、ラファエロについては、今回の旅行では大作の絵はあまり見られなかったが、イタリア各地の美術館でラファエロの絵画を見ることができ、特にその絵が目立つように展示してあった。ラファエロのイタリアでの人気がよく分かる。
ラファエロはミケランジェロやダビンチと違いハンサムで女性にもてたらしい。ミケランジェロやダビンチの様に彫刻家ではないので、絵画の中に、内面の筋肉の動きまでは描こうとしなかったが、どの絵も美しい。特に、女性の肌を美しく描いていたのが印象的だった。
   ラファエロの少女の美肌新樹光   邊邊
ラファエロとミケランジェロは仲が悪く、バチカン博物館の門の前の彫刻でも二人の視線が合わないように彫られていたのも面白い。なお、自由時間を含めイタリアの色々な美術館を訪問出来たが、日本人に人気のあるフランス印象派の作品はあまり見当たらなかったのはイタリアらしく興味深かった。
二人のヘップバーン
今度のイタリア旅行ではヘップバーンの話がよく出た。ローマでの「ローマの休日」のオードリ・ヘップバーンとヴェネツイアでの「旅情」のキャサリン・ヘップバーンである。
イタリアに来て何でアメリカ映画やイギリス映画なのだろうという気もしたが、二つとも、懐かしい名画で多くの日本人が見ていたからであろう。特にオードリは日本人観光客の人気が高い。イタリア映画の名前がでたのは、ローマのテルミニ駅での「終着駅」という映画位かもしれない。
初日の夕方、Nさんにベルベニーニの船の噴水のある広場とスペイン階段につれて行ってもらった。「ローマの休日」でオードリが階段を駆け上がったところである。当日は何百鉢かの色とりどりの躑躅を持ち込んで飾ってあり、丁度夕日が沈む時と遭遇し、オレンジ色に染まったローマの街の眺望が実に美しかった。毎年今の時期30日間だけ鉢植えの躑躅を飾っているそうである。
    スペイン広場の躑躅夕日に包まれる   邊邊
スペイン階段を降りまっすぐに行くと、イタリアの有名ブランドの店が並ぶコンディット通りにでる。右側に行くと三つの道(トレ・ビア)に囲まれているトレビの泉に出る。
このトレビの泉にコインを投げ込めば願いが叶えられるとのことである。一枚入れれば再びローマに戻って来られる。2枚入れれば素敵な人と巡り会える。別れたい人は3枚。とのことである。毎週月曜日に泉に入っているコインを回収するとのことだが相当な額になるそうである。
誰が決めたか知らないが、後ろを向いて左の肩越しに投げろと投げ方まで指示してくれる。うまい噂を流したものだ、これでローマ市の財政に相当貢献すると思いきや、上には上があるもので、ある女優が市と交渉してある慈善団体に寄付させているとのことである。
「ローマの休日」でオードリが夜中に大使館を抜け出すシーンを覚えている方も多いと思うが、その撮影場所になった、バルベリーニ宮(国立古典絵画館)がトレビの泉のそばにある。あまり団体の客は行かないようで、Nさんの勧めで連れて行ってもらった。ラファエロ、リッピ、カラバッジョなどのイタリアの古典絵画が沢山展示してあったが、あまり多すぎて時間がなく全部見られなかったのが残念だった。しかし、映画のシ−ンを思い出しながら、建物や庭を鑑賞することが出来た。
「ローマの休日」で船上パーティが開催され、オードリ達がドンチャン騒ぎをした撮影場所はサンタンジェロ城のそばのテベレ川の中とのことである。ここはあまり高級な所ではない様でホームレスが多い。面白いのは橋ごとにここはドイツ地区、左はフランス地区とホームレスの縄張りが決まっているらしい。さすが、ローマは国際都市である。
我々がバスで通りかかると、大きな黒いビニール袋を担いだ人たちがぞろぞろ歩いている。ガイドの説明によると、路上で偽のブランド品を売っていて警官に追われて、店をたたんで逃げているところだそうである。
彼らは偽物を売っているから逃げているのではなく、不法滞在者だから逃げているのだそうである。本物として売っているなら詐欺だが、最初から偽物として売っているのだから違法ではないそうだ。そんな論理があるのかなと思った。それなら白昼堂々と歩いている今、不法滞在者として捕まえればよいと思うのだが、どうもよく分からない。私には職務上、お互いに取り締まりゴッコをしているようにしか思えなかった。
一方、キャサリン・ヘップバーンが出演したイギリス映画「旅情」Summer Madnessの舞台となったヴェネツイアは世界でもユニークな街である。というのは、この地球全体が車社会の中で市内に車が殆ど走っていない。ヴェネツイアの主な交通機関は運河を走るヴァボレット(水上バス)とゴンドラなのである。
この街にはガラス工芸、シルクの刺繍などの手工芸はあっても大工場はないので、廃棄ガスはない。しかし、地球温暖化の影響で街全体が次第に沈みつつあるということで、この街はある種の哀愁をかきたてるのかもしれない。実際、10月から2月ころのアクア・アルタ(高潮)の時には有名なサンマルコ広場は水浸しとなり、そのための通路として使うための長椅子のようなものが広場のあちこちにおいてあった。
ヴェネツイアは、ヨーロッパ始め、各国の観光客を集めて、まさに観光の街という感じである。このヴェネツイアを舞台にすれば、夏の休暇を過ごすために来た或る中年の女性がイタリアの男性と知り合い、相愛の中となり、別れを惜しむ。という簡単なストーリーで素晴らしい映画が出来てしまうのだろう。
日本からの観光客も多いようで、老若色々な日本からの観光客にもよく会った。我々が食事をしたレストランでボーイにトイレはどこかと、片言のイタリア語で聞いたら、「まっすぐいらして左側です」と流暢な日本語で答えたのには驚いた。我々の現地ガイドをしてくれたフェデリカさんも会ってすぐ「へんな日本語と英語とどちらでガイドしますか」と話し始めたが、日本語は下手ではなかった。
ユーロ諸国の日本語を話す現地ガイドは大体日本人が多いが、ここではイタリア人である。街全体の対日感情も良いように感じた。
午後のフリーの時間にNさんに、サンマルコ広場対岸の観光名所リアルト橋まで案内してもらった。細い運河沿いを歩いていくと「旅情」で撮影に使われたキャサリン・ヘップバーンが泊まったような小さなホテルが運河脇の方々に建っている。日本人団体客のような忙しい旅ではなく、数日、或いは数週間の宿泊にはこういうホテルを利用しているのであろう。
しかし、ひどく道は分かりにくい。細いくねくねとした路の周りには同じような土産物の店が並んでいる。映画のなかでキャサリンがホテルの前の浮浪児に小遣をやって案内してもらっていたシーンを思い出した。ここでは一人で散歩していればすぐに迷子になりそうである。
Nさんはヴェネツイアには何回か来ているようだし、イタリア語も多少話せ、英語も堪能であるが、それでも地図を片手に、なんとか通りを左に曲がってなど考えながら、案内してくれた。私は小道を歩いていても大船に乗ったつもりでついていった。リアルト橋のすぐそばまで飲食店、宝石店、小物売り場、文房具屋などの店屋が立ち並び、橋の上まで来て始めて運河の上ということを実感した。
「この後、サンマルコ広場でお茶を飲まない?」と言うとNさんは「飲みましょう。しかし時間がなくなるから、帰りはヴァボレット(水上バス)に乗りましょう」ということでヴァボレット乗り場を探した。ヴァボレットに乗ると、苦労して歩いていたのがうそのように、サンマルコ広場にはあっという間に着いた。
サンマルコ広場のカフェーでは、たまたまキャサリンが相手役のロッサノ・ブラッティに声をかけられた撮影場所あたりに席をとり、お茶を飲んだ。楽団がボレロなどさまざまな曲を演奏していた。のどかな春の日は暮れそうでなかなか暮れないのは日本だけではない。サンマルコ広場は各国の観光客がひっきりなしに横切っていた。そのたびに鳩が飛び回っていた。サンマルコ寺院を見ながら春宵を異国の土地で「値千金」に過ごした。
その後、皆でゴンドラに乗った。ゴンドラは「旅情」にもでてきたが、ホテルなどに泊まった人たちがヴァボレットの通れないヴェネツイアの狭い運河をゴンドリエ(漕ぎ手)に漕いでもらい、あちこちに行く交通手段でもあり、ヴェネツイアの街を運河側から眺め、異国情緒を味わうための観光資源でもある。
我々のゴンドラにはゴンドリエの他に、イタリア人の歌い手とアコーディオン奏者が同乗してくれ、日本の観光客と見て、サンタ・ルチア、フニクリ・フニクラ、オーソレミオ、カタリーカタリー、ボーラレなど我々が馴染んでいるカンツオーネやヴェネツイアの歌を次々に歌ってくれた。
こちらにも一緒に歌えとジェスチャーをするが、日本語の歌詞もよく分からないのに、イタリア語などで歌えるわけもない。ゴンドラがサンマルコ広場に近づき、演奏も終わったようなので、「おしまいか」と片言のイタリア語で聞いたら、イタリア人特有の人懐こそうなアコーディオン弾きが色々話かけてくる。日本の何処から来たのか、あなたは、マルチェロ・マストロヤンニに似ている。彼は8回も離婚したのだぞ。などなど。多分、マルチェロ・マストロヤンニは日本でも有名なので、日本人男性を見ると誰にでもそういうのかもしれない。アリデベルチ・ヴェネツイア!

画像 杉村画廊様より




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