文明の衝突の再読   −クレポンからの批判などー
                                                                       
更新日2006-04-02
政経1年次 後藤圭三

 サミュエル・ハンチントン教授が、『文明の衝突』を書いたのは1996年であり、日本で訳書が出たのは1998年であった。この書物は、種々様々な批判を受けた。なかでも、2001年9月11日のテロを経験したあとではいわゆるイスラムと西欧諸国との「衝突」をいたずらに煽動する害しかないという非難が専ら行われているのは、よく知られている通りである。最近、フランスの哲学者 マルク・クレポンが『文明の衝突という欺瞞』という論文を発表し、いわゆる「文明論」は誤りであり、欺瞞ですらあると攻撃している。安藤ゼミにおいては、 ハンチントン論文について、 『引き裂かれる世界』という追加の論文も加えて、2003年の桜祭りの議題の一つとして討論をしたことがある。当時も、我々は敢えてハンチントンがすべて誤りと断じたわけではなく、世界の再生への道を探ることが可能かについて論究していたわけであるが、今回の桜祭りにおいて、ハンチントン理論の「再読」を試みることとした。
 『文明の衝突』の出版からすでに10年が経っており、その間様々な世界的な諸事件が積み重なっているわけであるが、それらの事情を考慮しても、ハンチントンが根本的に誤っているとは、目下のところ断定出来ないのではないだろうか。
 それにしても、何故「文明の衝突」が起きるのだろうか。それは、文明間のフロント・ライン(断層線)での避け得ざる摩擦・衝突が根本原因だとハンチントンは云う。歴史的・構造的・地政学的にそうだというのだが、それがいわゆる文化本質主義というべき誤りだとクレポンが批判しているのである。だが、そう云い切れるかは、今少し見守らねばならないのではないか。
 ところで、ハンチントンの論文には、日本について興味深い記述がある。やがて起るであろう米・中間の「衝突」に当って、わが日本(独自の文明)は最終的に中国サイドにすり寄って行くという分析である。これは、「脱亜入欧」のつもりでいた日本人にとっては、いささか驚きの分析ではないのか。ハンチントンなど欧米人が心底そう思っているとすると、すこぶる問題なのではないのか。現在の日本政府の一部の主脳たちが、若しかしたらそのような欧米の空気を察知して、それを打ち消す手段の一つとして反アジア的言動を敢えてしているのかも知れない。いわゆる「靖国問題」一つをとってみても、本来は日本人の内部においてよく討論し方針を定めねばならぬと思われる事柄をわざと極論の横行を許して、日本人はアジアの干渉を許さぬ、と横になって見せているのでは、と思いたくなる。
 いかなる情況にあるにせよ、「文明」は最終的に「衝突」するという論調には、今少し冷静で、学問的な研究を加えることが望ましいのは云うまでもない。そしてその一方、「衝突」などという不届きな論調を許さない、という極め付け自体が、世界理解の客観性に欠けていると反省する必要があるのかも知れない、と私は考えている。
以上
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