格差社会のメンタルヘルス
「自己実現」の呪縛と物語論的アプローチ

    フリーライター・専門学校講師
    鈴木 茂昭

はじめに
 ニート・フリーターが社会問題化している。「再チャレンジ可能な社会」を掲げる安倍内閣もニート・フリーター問題を重要政策課題に取り上げている。
 私は専門学校講師として十数年来、若者たちを社会に送り出してきた。その彼らが、現在のニート・フリーター層の世代的中核を成していると思われる。そこで、彼らとの日常的な接触を通して感じたことから、現在の社会心理的な特徴及び問題について述べてみたい。

ニート・フリーターと格差社会
 日本では、15〜34歳の若年無業者(非就業、非求職、非通学、非家事)をニートと呼び、その数は80万人程度と推定されている。またフリーターはアルバイトやパートなどの非正規雇用者を指し、派遣・契約社員を含める内閣府の調査(1)では417万人、学生・主婦を除く若年人口の5人に1人の割合だという。
 加えてさらに相当数のフリーター予備軍が存在する。私の勤める学校でも新卒時にはなんとか就職したものの、3カ月、あるいは1年、3年で退職する者や、退職(転職)を希望する者が非常に多いのである。3年離職率(2002年卒)が大卒で34.7%、高卒で48.6%、どちらもその半数以上が1年以内の離職という統計(2)がある。
 離職すると、多くはしばらくフリーターの仲間入りをすることになる。また、フリーターでは経験の蓄積やスキルの向上もあまり見込めないから、時間の経過とともに正規社員に再雇用される道はますます厳しくなる。したがって、景気回復によって新卒者の就職率が上がっても、予備軍を含めたフリーター人口が大幅に減ることはないだろう。
 ようするに、病的色彩のある引きこもりから、ニート、フリーター、フリーター予備軍に至る一群の若者が大量現象として出現している。これらを「一群」とするのは、そこに共通する心的傾向(後述)が感じられるからである。そこでこれら一群の若者たちを、中核層であるフリーターに代表させて括弧付きの「フリーター」層と呼ぶことにする。
 ところで構造不況のさなかに、日経連(当時)が労働力のリストラ(再構築)構想として、経営幹部候補の基幹的正社員以外は随時契約の専門技能者及びパート・アルバイトの非正規雇用に変える方針(3)を出したが、まさに時代はその通りに進んだ。つまり、一部のエリート社員と膨大な「フリーター」層への2極分化という構図は、経済界の要望に沿うものでもあった。
 生涯をフリーターで通した場合と正規社員とでは生涯賃金に2億円を超える差が出ると言われており、年金や福利厚生などを考慮するとさらにその差は開く。大変な格差である。もし階級闘争のたぐいが発生するとすれば、正規社員対「フリーター」という構図になるだろう。格差是正を求めるには、雇用の流動化(むしろ格差拡大をもたらしかねない)よりも「フリーター」層の賃金・待遇の改善が第一である。しかし問題は、膨大な「フリーター」層出現の背景である。

呪縛としての「自己実現」
 学生たちに話を聞くと、判で押したように「やりたい仕事がわからない」「もっと他に自分を生かせる仕事があるはずだ」というような答えが返ってくる。「自由」や「個性」、「自分らしさ」、「本当の自分」という言葉が頻出する。
 どうやら彼らは、子どものころから家庭や学校での個性尊重・自主性尊重の教育によって、「良い点数を取るより、やりたいことができたか、がんばったか」「結果よりも、自主性や努力」とインプットされているようだ。自主性や努力は主観的なものだから、根拠のない自己肯定や自己否定におちいりやすい。「夢を求めている」「がんばっている」からそれで良い、「夢をもてない」「がんばれない」から自分は無価値だ、というように。
 これは格差という結果から目をそらし、個人の問題に押し込めてしまう働きをする。「個人の自由と責任に基づく競争と市場原理」を謳う新自由主義にとって、不平等を隠蔽する都合の良いものである。
 「やりたいことを見つける」とか「本当の自分」「自分らしさ」などの言葉は、教育の場だけでなく、さまざまなメディアを通して喧伝されている。それらの言説が志向している価値目標を一言で表せば「自己実現」ということができるだろう。
 その「自己実現」は、欠乏欲求を満たした上での高次欲求というよりも、なにはさておき誰もが目指すべき一般的価値理念として君臨しているように思える。このカッコ付きの「自己実現」は、「自由」や「個性」や「本当の自分」を強要する(こと自体おかしな話だが・・・)強迫的な幻想となっており、現代の社会病理ともいえるのではないだろうか。

「自己実現」消費と「本当の自分」物語
 個人消費が国民総生産の過半を占め、しかも生活を維持する必要のための消費よりも趣味・娯楽・教養・コミュニケーション等の余剰のための消費のほうが大きい。人口増の期待できない先進国で経済拡大を図るには、この余剰消費の拡大が第一で、その動機付けとして「物語消費」というマーケティング手法が盛んになっている。たとえばブランド商品とか個性化商品とかこだわり商品とかでは、そのブランド等々の「物語」が消費対象となる。いいかえれば「物語」が欲望を形成するのである。
 物語の要素には「モチーフ(動機・意図)」「テーマ(主題)」「ストーリー(筋書き)」「キャラクター(主人公・配役)」などがある。消費の拡大というモチーフのもとにさまざまな筋書きの「物語」が生み出されているが、それらには共通するいくつかのテーマが見て取れる。そのなかでも特に強力なもののひとつが「自己実現」というテーマであり、「自己実現のために時間とお金をかける」というストーリーが浸透している。「個性的」「自分らしさ」を消費行動のなかで実現(仮現)させるのである。
 この「自己実現」物語は「本当の自分」という物語と通底している。「本当の自分」という言い方には、今(現実)の自分を「本当ではない」(嘘の)自分として否定すると同時に、空想的に自己を救済する働きがある。現実的な問題解決を棚上げにしたまま「青い鳥」探しに向かわせ、探しているということによって自己を肯定する。「自己実現」物語も、「自己」の「実現」ではなく「自己実現」という「青い鳥」であり、(財布を握りしめて)探し求めるものと思いこまされているのだ。
 「フリーター」層などは、まさにこの「自己実現」物語に翻弄されているように思える。「額に汗して働く」とか「会社員としての出世や安定的生活」とかの古い物語を対峙しても、それらはすでに説得力を失っている。「自己実現」物語自体を問題にするべきだろう。

自己の物語的構成〜物語論的アプローチに向けて
 「物語」によってもたらされるゆがみや病理に対しては、「物語」の改編あるいは新たな「物語」の創作によって対応してみたらどうか、というのがここで言う「物語論的アプローチ」(ナラティブ・メソッドとは違う)である。
 たとえば「自己」を「実現」するという話を逆転させて、実現しているのが「自己」であるというように。
 その都度かたちを変えて現れる断片的な「自己」を、ある程度の繋がりをつけてまとめたもの(必ずこぼれるものがある)が「自分」という物語である。人はみな「自分」という物語を生きて(演じて)いると同時に、そのことによって物語を紡ぎ出してもいる。もし生きがたい「物語」であるなら、「物語」を変えればいいのだ。
 とはいっても「物語」の改変はそう簡単ではない。自分という「物語」は、他の人々や社会や世界といった「物語」との繋がりの中にあるし、どう繋がるかこそが問題なのだから。
 ここで物語論について詳述する余裕はないが、時間的展開を含む物語という形式は人が物事を認識し理解する枠組みとして機能していると思われる。様々な現象を、時間的に展開する一連のパターン(ストーリー)として一挙に把握するのである。ある事態に対する判断や行動は、不確定要素の大きな未来への企投であるから、合理的推論よりも物語的類推のほうが有効である。というのは、物語として与えられた他者の経験や先例あるいはフィクションに含まれる様々なストーリーや教訓が参照され、指針となるからである。
 実際に私たちは子どものころから様々なお話を聞かされ、また自ら選んで読みながら、空想的な自己像を形成するとともに、現実との接触のなかでそれを修正してきたのである。先在する物語を糧にして「自分」や「世界」という物語を形成し、その物語を生きているわけだが、今や大規模な物語の書き換え(創造)が求められているのではないだろうか。
 物語論的アプローチの射程は深くて大きい、と私は思う。

文献
1)内閣府:国民生活白書,2003年
2)内閣府:国民生活白書,2006年
3)日本経営者団体連盟:「新時代の『日本的経営』」,1995年

「心と社会」は会員配布の形態をとっており、一般書店での入手が困難なため、転載しました。
出典 日本精神衛生会発行 「心と社会」 第127号に掲載
著者 鈴木茂昭氏は経済学部7年次です。

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