頭の良さと人柄の良さ
2007-02-24
                                                                 
2003年に「生まれつきについて」と「競争と共存の結びつき」と題して、素質の良さは自助努力の賜ではなく偶然に過ぎないから、社会還元すべきではないかと述べました
そうした考えを持つに至った原点は、今でも記憶に鮮やかですが、進学競争裡にあった小学6年生当時の友達N君との会話でした。そのやりとりは「N君、生まれつき頭が良くて出来る人が、なぜ努力しても中々出来ない人に教えてあげて、一緒に合格しようとしないんだろうか。」で始まりました。N君はクラスで一番おとなしかったので、ついホンネをぶつけて見たくなったのでした。それに対し彼は言下に「森谷君、そんなこと出来っこないよ。だって入試は選抜だから、みんな自分の事で頭が一杯で、人どころじゃないよ。」と否定しました。それでも私は「それなら、生まれつき頭の良い人間は、勉強を友達に勝つために使っている事になるんじゃない。」と辛うじて返しました。今からして言えば、この個と全体の問題は人類誕生以来の難問なので、話がそれ以上進まなかったのは当然過ぎる程当然です。
私自身、これはその後学生になって、恩師から学問の何たるかを啓示されるまで悩み続けた疑問でした。つまり、頭の良さは「善悪」に利用出来る諸刃の剣です。人に役立つにも、人に勝つにも、、基本的には頭の良さが大いに左右します。頭の良さはイコール善ではありません。総じて頭に限らず、強さ・優秀さだけを目的にすると心が乾いた社会になります。それなら人柄を磨くべきになりそうですが、それが容易でないのは、生まれつきの不平等が自然の摂理だからと思われます。所謂、エリートになるにも、それが大きく作用しますが、自分の天分を自助努力の賜ではないと自覚して、社会の為に還元する「人柄の良い」エリートは稀少です。何といっても人間は「自分」あっての人生ですから、あまり平等への寄与を求めると、悪平等として拒絶され勝ちです。それに全体の平等のために、自分の自由意志による自己実現を犠牲にする事は、近代的個人主義者が全体主義として最も忌避する所です。平等は機会均等の平等だけで、たとえ素質が不平等であっても,自分の信ずる自由な競争は奨励されますから、結果格差が拡大します。平等より強者への自由・ドリーム優先です。しかし、それを放置すると社会不安の危険が生じますから、エリートによる秩序を守るため、福祉や社会保障等のセーフティーネットを張ります。その実質は止む無き保護策で、平均的な素質の市民は受身の立場に追いやられています。
人間の命の基本は、他ならぬ自分で始まり自分で終わる一回限りの存在です。それ程自分は大切だから、天性に恵まれた人間が「自分」を生かすため好きな仕事に没頭すれば、芸術家の様に同時に他者にも喜んで貰えるような「共感社会」が期待されます。それが実現の暁には、生まれつきの素質の優劣など、お互いに気にしなくて済むからです。独立互恵が理想です。今のように個と個の間を優劣を巡る対立・競争とのみ捉えていると、何時までも住み難い社会を引きずります。人間解放をエリートの「犠牲的精神」に求めるのも一案でしょうが、先の通り期待外れになる可能性大です。それに現在論議されている教育改革の方向が、競争によるエリート養成の「格差社会」に専らあるだけに尚更です。主軸になるのは、矢張り自分自身の問題である、当の私達市民の「変革への連帯性・主体性」にあると考えます。自分達の事は、自分達が自覚し解決に向うのが、鉄則だと信じます。
以上

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