2007-12-07
安藤先生10回忌に寄せて
      経済7年次 鈴木茂昭
安藤先生10回忌に
後藤先輩より紹介頂いた「現代思想:マックス・ウェーバー特集」を読み、非常に興味深く感じたので感想をつづります。
なかでも亀嶋論文がおもしろく、安藤先生とのつながりを非常に強く感じました。
マリアンネは20世紀初頭の「プロ倫」執筆の時期を「創造の新しい局面」と呼んだが、亀嶋氏は第1次大戦以後の晩年をもう一つの「新しい局面」と捉え、その内容を「中間考察」と「プロ倫」改訂に代表させている。
「『プロ倫』の改訂は『資本主義精神起源論争』のみならず、『中間考察』に象徴されるような西欧近代へのウェーバーの新たな問題意識によるプロテスタンティズムをみつめる座標軸の変化とも関連していたのであり、それ故、従来ともすれば原論文と改訂論文との比較に終始しがちであったこの作品の『改訂問題』は、後期ウェーバーにおける宗教社会学の新たな展開といういっそう大きな文脈の中で改めて検討されるべきであろう」(同特集:亀嶋論文)と、亀嶋氏は述べているが、同感です。
思えば安藤先生も、ぼくが在学した70年代に「ウェーバー研究のエントツァウベルング」を開始し、「改訂問題」に取り組み始めました。これは安藤先生における「新たな局面」であり、後期安藤さんの始まりだったと思います。そのなかでぼくが受け取ったものは(追悼文集に書いたと思いますが)「中間考察」における「合理化の果ての深刻な意味喪失」という問題でした。 
近代化〜合理化〜脱魔術化〜脱意味化(意味喪失)という問題意識で、これを一言で言えば「近代化のパラドックス」となるでしょう。安藤さんの論文集「出立」の前半の大部分を占めるのが、まさに「近代化のパラドックス」でした。
安藤さんは「近代化のパラドックス」という問題地平を拓いたうえで、「改訂問題」に取り組みます(論文集「出立」の後半)。
ウェーバーの晩年の「新しい局面」もまた、この「近代化のパラドックス」の問題地平での「宗教社会学」論文の改訂作業にありました。亀嶋氏のいうように「改訂問題」を新たな展開という面から再検討する必要があります。安藤さんの場合、「プロ倫」の改訂問題では大塚批判を全面に出しているために、この問題が少し分かりづらくなっているように感じます。しかし、その後も「儒教と道教」の改定問題に取り組む作業を進めていた安藤さんは、「宗教社会学」の改訂作業のなかにウェーバーの「新しい局面」を探っていたことは間違いありません。(ぼくとしては、そのような問題意識でもう一度 「出立」論文を読み直してみたい気がします)。「プロ倫」では、近代化のパラドックス問題を象徴するような「鉄の檻」という表現が結論部に書かれています。(同特集:荒川論文では、訳語問題として「檻」ではなく「殻」という二重性を持った言葉だと言っています)。 
これをウェーバーにおけるニーチェ問題として捉える見方がある一方で、亀嶋氏は「意味喪失」問題状況におけるトルストイ的問題と捉えています。「中間考察」や「職業」2講演を考えると、ぼくも亀嶋氏に賛成です。
また今回の特集号には、グローバりズムと再魔術化への言及がいくつか見られました。まさに現代のアクチャルな問題に対するウェーバー的なアプローチといえるでしょう。そこで全面に出てくるのも「意味」の問題です。 トルストイ的問題を晩年のウェーバーの中に探ることは、現代のアクチャルな問題でもあると思います。
「ウェーバーを読む」という上での一つの方向性として考えられるのではないでしょうか。「プロ倫」から約100年、安藤没後10年を期に、「新しい展開」が開かれるのかも知れません。
 以上。
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