ゼクテの思い出

経済7年次 鈴木茂昭

 中学生のころ、興味半分で通ってみたバプティスト教会で洗礼式を見たことがある。
 受洗者は信仰を受け入れたいきさつを語り、イエスが死んで蘇ったことなどを信ずるという信仰告白を聴衆に向けてする。ついで指導者が受洗者の信仰の確かさを証言し、承認を求める。承認後、受洗者は裸に白い布をまとって、礼拝堂正面に作られたヨルダン川を模した(岩などが再現されている)ガラス張りの水槽に降りる。そこで牧師に全身を頭まで水に沈められる形の洗礼(バブティスマ)を受ける。
 これがバブティスト(洗礼派)のバブティストらしいところだ。たぶんウエーバーがアメリカで見たのもこのようなもので、郊外の実際の川で行われていたようだ。ついでに言えば、その教会では、よそから(地方や外国から)来たミサの参加者を一人ずつ「○○教会所属の○○さん」と紹介し、みんなで受け入れる儀式もある。まさにゼクテである。
 洗礼派、または再洗礼派という名称は以下の事情による。
 カトリックでは幼児洗礼を行い、生まれたと同時に地区の教会に組み込まれるが、物心が付いてから改めて信仰告白を行い、一人前の教会員として認められる。これが堅信式である。
 これ対して、あくまでも本人の自由な意志による信仰の表明を重視するグループが古代より存在した(幼児洗礼論争)。彼らは、カトリック支配の中では、生まれた時にすで幼児洗礼を受けているのだが、成人してからの自由意志による信仰告白とそれを認める証言を得て改めて洗礼を行う(だから再洗礼)。
 また洗礼の意味は精霊を受け入れることでもある。彼らは、教会による制度化された救済装置を認めず、神と個人の直接(その媒介をするのが精霊)交流を信じた。精霊の降りる場所としての教会、媒介者としての教職者を認めず(牧師もただの人)、個人に直接精霊が降りるとする(なんと魔術的な!)から、脱教会、個人の自立、良心の自由を求めることになり、教会勢力からは迫害される。精霊主義という魔術的な心性が脱教会化=脱魔術化を遂行することになるというパラドックスがある。
 このバプティスト=精霊主義が大陸で迫害されてアメリカに渡ったわけだが、その伝統は今でもアメリカ南西部のバイブル・ベルト呼ばれる地域に多く残っている。ゴスペルはそこで生まれたし、ぼくの通った教会でも信者グループがギターで自作の歌を歌い、かつては岡林信康を呼んで反戦歌を歌ったこともあった。
 アメリカでは今でもこの精霊主義の力は大きく、危機のたびに覚醒運動という形で表面化する。
 精霊主義を電池に喩えることができる。人間は電池のようなもので、電気が精霊。疲れて電気容量が減ると、出来た空洞に悪魔が忍び寄る。そこで神から精霊を受け入れて充電する必要がある。これが覚醒である。リフレッシュして気力が充実するのは精霊で満たされるからである。そして明日からの仕事を頑張る。精霊主義がビジネスにもレクリエーションにも結びつく。
 ディズニーランドも心身のリフレッシュによる精神の充電=覚醒の場としての意味を持っている。また、レーガノミクス(レーガンによるアメリカ再生)は精霊主義による覚醒運動と一体のものであった。

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