ラオスの旅
                                     廣瀬 行夫

 昨年の11月22日(土)より11月30日(日)までニュー・マネジメント・クラブのアジア・ビジネス研究会主催でベトナム・ハノイを経由して、ラオスを旅行してきました。ご笑読頂ければ幸いです。

1、ラオスの概要
 インドネシア3国といわれるが、それぞれ文化は異なる。人口もベトナム約7、400万人、カンボジア約1,350万人に比べ、ラオスの人口は約600万人に過ぎない。ラオスには多種類の民族が共存しており、その数は60~70種族と不明であり、公式には49種族となっている。しかし、年々改定されており、流動的とのことである。政府はラオス国籍をもつ者をラオス人と定義しているので公式には少数民族は存在しない。ガイドは低地ラオス人(ラーオ・ルム約7割)、丘陵地ラオス人(ラーオ・トウン約2割)、高地ラオス人(ラーオ・スーン約1割)の3種に分けて説明していた。
 低地ラオス人(ラーオ・ルム)は、タイ・カダイ系の言葉を話し、字もタイ語に似ている。中地ラオス人(ラーオ・トウン)はモン・クメール語、高地ラオス人(ラーオ・スーン)は、モン・ミッシェル、シノ・チベット語を話す。
 高地ラオス人と都市に住む人との経済格差は大きく、高地ラオス人は寒いため火を使い、そのため一酸化炭素中毒死も多く、また、幼児死亡率が多く、これらを合わせて、ラオス全体の平均寿命は低く55歳とのことである。
 また、戸籍もはっきりしないところもあり、私生児も多く、就学年齢がわからないときは片手を上にあげ、頭にそって手を曲げて逆の耳をつかめれば就学年齢と判断するとのことである。しかし、8割が農業者で、しかも低地は気候温暖で食べるには困らないため貧しい割には国全体の餓死者は少ないとのことである。
 ガイドの説明では、ラオスは今まで何回か戦争をしたが、攻められたことはあっても攻めたことはなく、また、勝ったことのない国ということだった。
 さて、ラオスの現状を一言でいえば、古代と現代が混在した国といえる。空港、ホテルその他公共施設などはそれなりに機能しているが、街に出てみると地下鉄はおろか、鉄道もない。人口が少ない性もあろうが、車もバイクも少ない。はだしで歩いている子供もいる。トウクトウクと呼ばれるオート三輪に荷台をつけ6〜7人までの人を運ぶ車をよく見かけたが、これが人々の足という感じなのだろう。
 古い公共建物にはラオス語とフランス語、比較的新しい建物にはラオス語と英語の表記がしてあった。しかし、フランスはこの国を植民地にしていたとき、インフラも工場も何も投資しなかったのだろうか。首都のビエンチャンを除いては、他の訪問した街、ルアンパバーン、パークセーは中心の道路以外は舗装をしてなく、道路信号も殆どなかった。托鉢であろうか、オレンジ色の衣をつけた僧侶が集団で歩いているのがやけに目だった。
    信号のない冬の街僧侶ゆく   邊邊

 スーパーも殆どなく、見かけたのは、何でも屋の日用雑貨屋のようなものだった。町の人は、朝市や露天の市場で食料品その他を手に入れるのだろう。ここでは色々なものが売られていた。豊富な果物や野菜は勿論、日用雑貨、各種の肉、河魚、もぐら、こうもり、蟻の卵など日本ではあまり見られないものも食用として売っていた。
 この国では仏教伝来の前に精霊信仰のようなものがあったのではないだろうか。多くの家の前に小さな家の形をした神棚のようなものがあり、多くのお供えがされていた。ホテルにも多少大型のものが飾ってあった。日本でいえば、神棚かお稲荷さんのようなものかもしれない。
 ガイドに聞いたところ、家の守り神(サンパプーン)というのだそうだ。しかし、最近の若い人はあまり作らなくなったそうで、だんだん減っているとのことである。

2、ルアンパバーン
 乗り継ぎのハノイ空港で3時間ほど待たされたあと、旧市街地全体が世界遺産に指定されたという北の古い都ルアンパバーン(大いなる仏の意味)へ着いた時はもう日が暮れていた。我々はルアンパバーンの中心地にあるビラサンティホテルに泊まる予定であったが、満室のため、中心地からやや離れていたが、同系列のホテル、ビラサンティ・リゾート・ホテルをこの旅行の最初の宿とした。しかし、朝起きてみると、緑に囲まれ、広い庭には睡蓮が咲き、手入れの行き届いた瀟洒なたたずまいのホテルだった。お湯の出が悪い、バスタブの栓が良くしまらないなど細かい不満はあったにしても、他のアジア諸国のホテルに比べても設備面で引けをとらない。
 翌日はメコン河をクルージングした。旅行中は天気に恵まれ、暑くもなく、寒くもない気候でメコン河のクルージングはすこぶる快適だった。メコン河の水はあまりきれいではなかったが、現地の人はこの水を飲料水、水浴び、洗濯など生活用水全てに使用しているようだった。
 王宮の閉館時間が早いということで、最初にルアンブラバーン国立博物館を見学した。フランスはラオス全土を植民地化したが、ルアンパバーンだけは「保護領」として形式上の王政を続けていた。この建物は1909年に、当時の王シーサワンウオンとその家族のために建設されたものだった。ルアンブラバーンという名前はルアンパバーンの以前の名前で現在も使用されていてややっこしい。
 1959年シーサワンウオン王が逝去、その後ここには王の家族が住んでいたが、1975年パテート・ラーオが政権をとると王の家族は北部に追いやられ、今は博物館として使用されていた。ここでは王政時代の王の生活の様子、各国からの王への贈り物やラオスの歴史などを見ることができ、この国を知る参考になったが、王宮は閑散としており、この国が共産党政権ということもあり、隣国タイなどに比べ王に対する国民の親近感が少ないように感じられた。
 昼食もこの河のほとりのレストランでメコン河のすばらしい景色を見ながら食べた。午後、船を河岸の船着場に寄せ、バク・ウーの洞窟を見学した。8世紀の昔、村人が河の精霊や祖霊を祀った鍾乳洞は、仏教の浸透とともに信徒が奉納する無数の仏像で占められていた。懐中電灯を借りて、洞窟においてあるこれらおびただしい仏像を見た。数は多いが、金製など高価なものは持ち出されて今はない。行く途中、沢山の子供が、鳥を小さな鳥かごに入れて売っていた。買って、買ってとせまる。1篭1ドル、しかし値段はどうでもよい、小遣いが欲しいのだ。その鳥を買って放せば功徳があるということらしい。ではその鳥を捕まえて篭に入れるのは殺生ではないのだろうか。小遣い稼ぎに子供たちにこんなことをさせている社会が何かむなしく、腹立たしかった。
 クルージングの途中、陶器、織物、酒作りの村などを見学した。これがこの国の主な生産物なのか。よく言えば素朴、古代に戻ったような気がした。「この国で売られている工業製品は全部輸入品だと思えば間違いありません」ガイドの説明が思い出された。それでは何を輸出しているの?と聞いたところ、水力発電で出来た電気をタイに輸出しているとのことだった。年間の国際収支は常に赤字、各種の国際援助でまかなっているようだった。
 夕陽が西に傾きかける頃、ルアンパバーンの最大のみどころ、1560年セーターテイラート王が造ったといわれるワットシェントーン寺院を見学した。大胆に湾曲している屋根が3層重なっているのがこの寺の特徴だろう。この幾何学的な造形美はこの国の各地のお寺で見られた。寺の中では沢山の僧侶が延々と読経をしていた。日本の読経とどこか節回しが似ていた。何を言っているのか全く分からない。現地の人には分かるのだろうか。
    短日やラオスの読経延々と   邊邊
 

 ラオスは仏教の国として知られている。特にこのルアンパバーンは人口3万人にも関わらず70以上の寺院が建っている。しかし、我々の大乗仏教と異なり、上座部仏教の一つなのだろう。従って如来像も菩薩像もいない。ラオスでは両手の平を相手に向けている多くの仏像を見た。我々はカンボジア、タイ、ミヤンマー、ベトナムなどを旅行したが、この種の仏像はここで始めてみた。ガイドは「まあまあ仏」でまあまあと宥めている姿と説明していたが現地でどう呼ばれているのだかわからない。
 
3.パークセー
 ラオスの北のルアンパバーンから南のパークセーへは航空機で行った。航空機の中でフランスの老婦人と隣り合わせとなった。フランスの片田舎(土地の名前を聞いたがよく分からない)に住み、このたび6人の女性づれで旅行を楽しんでおり、始めてのアジアへの旅行とのことだった。始めてのアジア旅行が何故ラオスなのか不思議に思い聞いてみたところ、ラオスはツーリストが少ないと聞いたからだとのこと。しかも我々よりゆったりした13日間の旅行だそうであった。そういう旅行もあるのだ。
 ラオスは20世紀末から観光にも力を入れ、観光産業も急速に発達してきたが、それでもラオスへの旅行客は確かにあまり多くなく、フランス人からみて日本同様ラオス旅行はそれほどポピュラーではないのだろう。しかし、私が日本人だと話したら、日本もラオスみたいな感じのところかと聞かれ、言葉につまった。フランスのおばちゃんは日本のことはこの程度しか知らないのかなと感じた。なお、ラオス観光客のうち日本人は2割位だそうである。
 ラオス歴史については、色々の説があり、一つには13世紀頃、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔国)の支配領域が南下し、この地に定住したことに始まるといわれている。しかし、今のパークセーの対岸チャムパーサック平原には、
3、4世紀から15、16世紀までクメール人が住んでおり、ワット・プーなどの寺院を作ったが、他の民族に追われたクメール人はカンボジャに逃げ、カンボジャでアンコール・ワットを作ったと言われている。だからアンコール・ワットの元はワット・プーだと聞かされた。
 今度の旅行でも、我々もパークセーから2001年世界遺産に指定されたばかりのメコン河対岸のチャムパーサック平原にあるワット・プーを見学する日程になっていた。ところが、ラオスを流れるメコン河には橋が建設中を含めても3つしかない。従ってチャムパーサック平原に渡るにはフェリーを使うしかないとのことであるが、これが大変なことだった。
 「フェリーの中にも、船着場にもトイレはありませんから、用はすませておいて下さい」とガイドに言われ、変なことをいうなと思っていたら、行ってみて分かった。フェリーといっても、2艘の船を横に繋いで木材を並べ、エンジンをつけただけのものだった。岸の船着場といっても単なる砂地であるが、レベルをあわせ車が乗れるようにするため、船に並べ結んである木材を、毎回手で鎖を巻上げ、巻き下ろし、上下に操作していた。電気を輸出している国が何故電動化しないのだろうか。フェリーも車も順番に並んでいて、フェリーに車を何台か一杯になるまで載せていく。その間30分くらいはかかっただろうか。これでも早い方ですよとのガイドの説明だった.
 ワット・プーとはワット(寺)プー(山)の意味で聖なる山(リンガーバルバータ)を祭っている。リンガーとは男性性器の意味で、そういえばワット・プーの後方の山リンガーバルバータはリンガーを感じさせる岩がでている。寺の広大な敷地に入るにため、リンガーをかたどった石が両脇に飾ってある男の参道を通っていった。
 ワット・プーの中心、南宮殿と北宮殿は相当傷みが激しく、現在各国の援助で復元中であったが、外観の石の彫刻はカンボジャのアンコール・ワットを思わせるもので、仏教というよりヒンヅー教の影響を感じた。更に寺の後方にある山の中腹あたりまで、半分壊れたままの石段を注意深く登っていくと広場があり、象の石、蛇の石などの彫られた石材があった。昔、生贄の儀式をしていたと聞いて、インカの文明の生贄の儀式を思い出した。これはヒンヅー教より、精霊信仰の現われであったのだろう。
 
4、ビエンチャン
 日本のODAで造られたビエンチャンのワッタイ空港を出て、貸しきりバスでビエンチャンの中心街に行くとき、この国にきて始めての交通信号に会った。人口60万人のラオスの首都だけあり、ルアンパバーンやパークセーより車やオートバイの数が増えていた。しかし、アジアの他の首都に比べて格段に交通量が少ない静かな街であった。
 戦死した兵士の霊を慰めるために建設されたというパトウ―サイ(アーヌサワリー)を見学した。1960年代から建設をはじめ、現在でも未完ということは、いかにもラオス的であるが外観はほぼ完成しており、建物の一番上まで登れたし、中では土産物も売っていた。この建物はフランスの凱旋門とそっくりの造りで、上からビエンチャンの街が一望に収めることができた。しかし、アジア諸国の首都、マレーシアのクアランプールや中国の北京などに比べると、高層ビルがほとんどないのが印象的だった。高いビルでもせいぜい7~8階建で、メインの通りには2、3階の家並みが続いている。そのかわり、街に緑が残っているのが目に付き、車も比較的少なく、のどかな南国の街の印象をうけた。
 ガイドの話ではこの国には地震と台風のないとのことであるが、街を歩いた感じでは、もし四川大地震のような地震が起きれば2,3階建ての家の多くは倒壊するのではないかと心配する造りの家々だった。パトウ―サイの後方にあった公園には噴水のある大きな池とパリのエッフェル塔付属の公園を思わせる花壇が、綺麗に整備され色とりどりの南国の花々が咲いていた。フランスが残したものはこんなものだったのかなと思った。
 パトウ―サイと並んでビエンチャンで見所といわれているのが、タートルアンである。なだらかな丘の上に建てられた45mある黄金の塔で、ビエンチャンだけでなくラオス全体のシンボルといわれている。その起源は紀元前3世紀のクメールの仏塔といわれるだけあり、これは寺というより、パゴダであり、何回も再建され拡張されていたが1930年くらいから現在の姿になったといわれている。ミヤンマーで多く見てきたパゴダと共通の流れなのだろう。
 ここでは古代と現代が入り混じっている。従って、インターネットはある程度普及しているのだろう。中心街にインターネットカフェーのようなものはあった。ホテルではもうクリスマスの飾りつけがおこなわれている中、インターネットカフェーで赤い衣をつけた僧侶が、パソコンを操作しているのが外から見られた。
    クリスマスインターネットする僧侶  邊邊

 この他、ワットホーパケオ、ワットシーサケート、ワットシームアンなどを見学したが、ワット(寺)が博物館を兼ねている所も多く、ラオス特有の仏教遺跡、というより信仰の場所の見学だけでなく、ラオスの王政時代、植民地時代の歴史を知る手助けとなった。
 ビエンチャンではこの他1998年、日本が援助して出来た職業訓練所を視察した。現在、女性が30人、男性が5人学んでいるそうだが、今までに300人の女性と10人の男性が訓練を受けていたとのことである。訪問したとき、若い女性が織物と染織をしていたが、それを見た後、我々が生徒になり、3班に別れ、赤、黄、青の草木染めの貴重な体験をした。また、ビア・ラオスの工場にも行ったが工場はその日は休みでビールをご馳走になっただけだった。
 ビエンチャンで我々が泊まったラオ・プラザホテルは街の真ん中にあり、周囲の散策にも便利で、設備も良く、夕方、時間があったので屋外プールでひと泳ぎしたが、11月下旬でも寒くなく快適だった。
 
5.ベトナム戦争
 観光旅行では、ベトナム戦争にふれるところはあまり案内されなかったが、やはりベトナム戦争に触れないわけにはいかないだろう。
 我々はベトナム戦争というとベトナムだけを考えがちだが、カンボジアも、ラオスもこの戦争により大変な被害を受けていた。特に北ベトナム軍が南ベトナムに軍事物資や兵員を輸送するため、ラオスの山岳地帯を利用したため、それを阻止するため、アメリカ軍がラオスのモン族を狩り出し、モン族を前線に送ったため、北ベトナム軍、パテートラーオ軍とモン族との戦闘があり、モン族の被害が多発していたようであった。今の政権下、モン族は今でも不遇を強いられているようであった。
 また、アメリカが北ベトナムだけでなく、ラオスにも多くのクラスター爆弾を投下したため、そのとき投下された爆弾の不発弾(ボンビー)が農村地帯、山岳地帯に残っており、子供や女性もその被害をうけている。今でも雨が降ると土が流されてボンビーが出てくるそうである。
 日本もその処理に協力しているが、その膨大な量の処理に苦労し、その処理が遅々として進んでいないようである。2009年6月からクラスター爆弾が全面的に禁止になる条約が調印されたと聞いているが、このボンビーのために、ラオスの開発が遅れている様子が最近のNHKでも放送されていた。
 
6.ベトナム・ハノイ
 我々アジアビジネス研究会でベトナムに来たのは今回で3回目、ハノイには2回目の訪問となった。というのはラオスの空港がジャンボ機使用には狭いためか、利用旅客数が少ないためか、日本からの直行便がなく、ラオスにいくにはタイ経由かベトナム経由で行くしかない。
 今回、ベトナム経由を選んだのだが、タイ経由を選んでいたら、今回のタイ空港占拠事件で、帰国が数日遅れることになっていたかもしれなかった。
 そんなわけで今回のベトナム訪問はラオス訪問のついでという感覚が強かった、しかし、ベトナム・ハノイの変化も体験できる旅だった。14年前にここへ来たとき建設中だった空港までの高速道路がその翌年には出来ており、今回はハノイの中心街まで高速道路でスムーズに行くことができた。
 ハノイでは前回同様、ホーチミン廟、ホーチミン博物館、一柱寺、ハノイ大教会、文廟、歴史博物館などを見学し、夜は水上人形劇を観劇した。
 旅のガイドブックには、「ハノイはベトナムの首都、政治の中心でありながら湖、緑の多い歴史ある都市として知られる。歴史的建造物の残る落ち着いたたたずまいが魅力」と書いてあるが、それは十数年前のことであろう。「落ち着いたたたずまい」は今この街にはない。14年前私が来たときは自転車が多く、自転車のタクシー・シクロが多かったが、自転車は少なくなり、これがバイクに変わった感じがした。しかも、バイクにはたいてい2,3人乗っている。シクロは観光用に多少残っている程度であった。
 また、前回バイクに乗っていた人はバイクから自動車に変わった感じで、自動車とバイクで道路は混雑し、やたらと警笛を鳴らす車が多く大気汚染が強く感じられた。商店街には、色々なものが売られ活気に溢れていたが、車やバイクは人が歩いていても多少よけても、止まらないので注意していないと事故に会いそうな気がした。
 一般に正規の賃金が安いのでアルバイトをする人が今でも多いようで、その移動のためか、四六時中バイクが町中で動いている。2020年に今計画中の地下鉄が完成するとのことであるが、それまではこの混雑と騒音はますますひどくなるのかもしれない。
 街は活気に溢れていて何でも売っているが、ラオスで受けた素朴さに比べ、ベトナムでは世知辛い感じがした。タクシー料金もいい加減で、我々が分散して乗った3台のタクシーも同じ距離走って一番安いのは5ドル、高いのは24ドルと旅行者とみると適当に吹っかけるようであった。
 一般に社会主義国は軍隊と官僚が強い。ベトナムの軍隊も相変らず強力で男子は2年の兵役の義務があり、現在160万人の軍隊をもっているとのことである。また、役人の汚職についても前回訪問のときとあまり変わらないようで、素晴らしい門構えの高級マンションの前を通ったとき、あのマンションにはどういう人が入るのかとガイドに聞いたところ、役人ですとすぐに答えたのには驚いた。役人は共産党員がなることが多く、それに対する反感も強いようであった。もっともそういうことが言える自由はあるのかもしれない。
 ハノイには、日本人が3000人在住しているというが、ガイドに言わせると、ベトナムでは「日本の明治維新に学べ」というのが合言葉になっているとのことである。ベトナムは今、高度経済社会への離陸の途中なのかもしれない。

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