キリシタン文化にふれて

政経3年次 森谷仁朗

 11月8日から10日にかけて天草・島原の乱の現地他に旅した動機は、キリシタン文化を通じ「自分にとって宗教とは何か、神とは何か」を考察したいが為だった。
 それには先ず一般的にキリスト教は、隣人愛・愛(アガペー)を説く世界宗教と言われながら、この日本ではなぜ1587年に秀吉が「キリシタン禁教令」を公布せざるを得なかったかを確認する必要がある。
 その迫害の時代背景には@キリスト教布教と植民地政策が武器としてセットされた事 A日本人が海外に奴隷売買された事 Bキリシタンの巡回布教が煽動的強制的であった事 C神社仏閣が破壊され僧侶も迫害された事 D日本人にとって使役に必要な牛馬を食べた事などが挙げられる。だが、なぜか通常の教科書では、殉教の面は強調されてもこの布教の負の面は見当たり難い。それにしても禁教令後の1597年に秀吉が、26人のキリシタンを処刑断行させた行為は許せないが、一方、一国の最高責任者ともなれば、国家の安全保障は最大の任務だから、あくまで布教を続け抵抗するキリシタンに対し、鎮圧を強めた事は想像に難くない。
 さて、この視点から天草・島原の乱(1637年〜38年)の本質を探ると「宗教一揆か、農民一揆か」の区別が明瞭になって来る。農民一揆の性格は、代官、守護の圧政に対する団結要求運動で宗教色抜きか従の場合が多い。しかし、天草・島原の乱に関しては、「禁教令」に対し殉教も辞さない宗教問題そのもので、民衆を生活不安に陥れる領主の重圧は、火となった信仰回復運動に油を注ぐ結果となったと言えよう。従って、私はこの乱は一向一揆と同様「宗教一揆」の色彩が濃いと考えたい。農民一揆を、自由・平等の時代変革を目指す宗教色の強い一揆にしたのではないだろうか。
 旅行のコースには、勿論、天草四郎メモリアルホールの見学が入っていたが、その詳細については今回の目的が、冒頭に述べた通り「自分にとって宗教とは何か、神とは何か」にあったので割愛した。それにしても、天草四郎が「一揆への参加を神の慈悲に応えるための奉公」として捉え、離脱を戒めたカリスマ性の凄まじい悲劇性には心が揺さ振られた。
 しかし、考えて見るとこのように迫害し合ったキリシタンと仏教徒とはいえ、注目すべき共通点は人間の「救済」への切なる祈りである。キリシタンはそれを神の子・イエスの教えである愛と赦しに求め、仏教徒は人の子である釈迦の教えである涅槃に求めながら、両者がわが宗教への信仰に熱心である程、排他的に陥って仕舞う。その矛盾は、純粋さの危険、宗教の倒錯、宗教は危険と隣り合わせが原因していると思われる。であれば、我々現代人にとって「神とは何か」を再び問わねばならない事になる。「救済」を目的とする信仰心が虐殺を犯す筈なく、布教する人間の手段に問題がある。
 キリシタンはヤハェを天地の主宰と信じるが、私は人間は自然の産物であり、自然の摂理・法則に従わざるを得ない存在だから、人間を超える絶対的存在としての「自然を神」と信じたい。人間お互い自分の意思で生まれたのではなく、死ぬのでもない非合理で相対的で不完全な存在である。この厳たる事実を相互に自覚し反省し合えば、そこから人類共通の「慈悲の念」が芽生えて来るに違いない。これを私は多神教のアニミズムとは異なる「自然教」と名づけ、その信徒になり救われ!たいと願う。今回の旅の収穫はその目覚めにあった。

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