ウズベキスタンというところ

廣瀬 行夫

1、中央ユーラシア
 私の所属している異業種交流会ニュー・マネジメント・クラブの分科会であるアジア・ビジネス研究会では、毎年アジアの1国を決め、毎月それに関係ある人をお呼びし、講演会を開いたりして、その国についての多少の知識を得て視察旅行を行っている。今年(2010年)は9月1日より10日まで、ウズベキスタンに行くことになった。今まで、このアジア・ビジネス研究会ではアジア諸国20カ国以上を訪問し、中国のトルファンやウルムチ或いはトルコのアナトリア地方にも足を伸ばしたが、ウズベキスタンという所謂中央ユーラシアの国一国を集中して訪問するのは今回が始めてであった。
 現在、ウズベキスタンには、成田空港から関西空港経由で首都のタシケントまで直行便週2、3便が出ており、また帰りはタシケントから成田空港経由で関西空港まで直行便がでているので、簡単に行くことが出来る。
 さて、この中央ユーラシア地方はこの地方のみ原産の馬がいたため、3000年前に遊牧していた騎馬民族が出現した。「4大文明」を基礎として拡大発展する農業文明圏と、遊牧騎馬民族が対立・抗争・協調・共生・融合により文明を発展させた地方である。
 我々の旅行の現地ガイドは、スルーガイドとして白皙、栗毛のチャーミングな小柄なロシア女性で、マリアという名前だった。そのマリアは冒頭ウズベキスタンの歴史を語るのは「複雑」と言ってあまり詳しい説明はしなかった。
 しかし、ウズベキスタンの現状はマリアの説明では、西の自治区カラカルスタン、西南のホレズム(太陽の国)、サマルカンドを中心としたソクド、東の豊かな農業地帯フェルガナ盆地に分けることが出来るとのことあった。
 確かにウズベキスタンの歴史を語るのは複雑で単純ではない。ということは、ウズベキスタン共和国として独立してからまだ20年しかたっていないし、ソ連の傘下のウズベク人民共和国が成立してから数えても90年にも満たない。それまでは、ウズベキスタンという国はなく、他国との境界がはっきりしていなかったようである。7世紀には、2030の都市国家群があったとのことである。
 この国は、強いて言えば天山山脈やパミール高原からの水を集めて流れているアムダリア(川)とシルダリア(川)の間にある地帯がウズベキスタンである。住民はトルコ系、ペルシャ系を主として100以上という多く民族が住む、シルクロードに沿った砂漠のオアシス都市国家群がウズベキスタンとして国家形成されたのであろう。住民の歴史は長いが、国としての成り立ちは若い国である。

2、シルクロードの旅
 我々はウズベキスタンを西方のホレズムの中心都市、世界遺産のヒヴァから、ブハラ、ナボイを経由して、サマルカンドまで740キロという長い距離を専用バスで移動した。ヒヴァを出発してから、ウルゲンチンを過ぎると砂漠に入り、食事するところがなく、昼食が遅くなりそうということだった。そこで、人口20万人の都市ウルゲンチンで多少のスナック菓子でも買おうと、食料品店に寄ったが、幹事の説明ではほとんどの食品が賞味期限切れとのことで買うのを止めた。私はこの際、トイレを済ましておこうと、マリヤにトイレの場所を聞いてもらったら「ない」ということだった。結局、砂漠に入る前の適当な場所で止めてもらい、用をたすことが出来た。ということはこの道にはトイレの設備が全くないので、時々車を止めて適当な場所で用をたす以外にない。女性には気の毒のようだった。
 ヒヴァを出発してから、ウルゲンチンを過ぎしばらく行くと、次の宿泊地ブハラまで、延々と続くカラクルム砂漠を通った。ここは砂漠というより、多少の草が生えている土漠、或いはステップ地帯という感じのところだった。この400キロ以上不毛の地帯を通ると、日本の1.2倍の国土を持ち、人口が2.780万人しかいない理由が良く分かった。
 そういう面では、石油やレアメタルはなくても、生きていくために、一番大事な水に恵まれている日本は有難いなと感じた。そしてこれが、昔からのシルクロードであるという感慨が沸いてくる。
 シルクロードは古代・中世において自然に出来た踏み分け道で、鬱蒼たる森林地帯を避け、一望千里の砂漠を通る道で、東西だけでなく南北にも通じネットワークとなっていたとのことであるが、今はほぼ同じ道が舗装され、今回のように専用の貸し切りバスで通ることが出来る。しかし、道路は工事中のところが多く、また舗装も痛みが激しく、ドライバーは道路の穴を避けて運転していたので、スピードは出せない。しかし、交通量は少なく、対向車はあまりない。ロバに跨った子供なども見かけた。
 この地方の夏は雨がほとんど降らない。特に西方のウルゲンチンあたりから、ブラハ付近までは全く降らない。我々旅行中一回も雨に降られなかった。我々は冷房の利いたバスでの走行で暑さはあまり感じなかったが、ひとたび外に出ると温度計は40度を指していた。乾燥していたので、その割には過ごしやすいが、やはり40度の熱風を全身で感じた。時々オアシスのようなところもあるが、外の景色は単調な風景が続く。
 午後2時頃だったか、やっと食事の場所に辿りつき、木陰でウズベック料理の焼肉などを食べた。

    40度の灼熱シルクロードの木陰     廣瀬邊邊 

翌日のブハラからノヴォイ、サマルカンドへ行く道は所々ポプラ並木があり、アムダリアやシルダリア、その他の川などからの運河によって水を引き、灌漑されて出来た綿畑や果物畑、水田、放牧地などに変わっていく。所謂オアシス部落であり、農業や牧畜を行い都市や部落を形成している感じが良く分かる。
 お陰でシルクロードがどんな感じのところか実感として、経験することができた。バス旅行でもこれだけ大変なので、馬やラクダでの旅はさぞ困難だったろうと推察出来た。しかし、この国は理解するにはやはりシルクロードの歴史を知る必要があろう。このシルクロードの古代の発展を語るとき、見逃せないのはソクド人の活躍であろう。

3、ソクド人
 紀元前8世紀にはスキタイ系遊牧民が中央アジアを支配していたようだが、紀元前6世紀〜前5世紀からシルクロードの貿易を支配した主役はソグド人であった。彼らは中央ユーラシア全体にネットワークを張り巡らしていた。そして政治・外交・軍事・文化・宗教の分野で想像以上の重要な位置を占めていた。この地方は鉄器の使用が普及した紀元前6世紀〜前5世紀から灌漑網が整備され、農業を基本とする緑豊かな都市国家群が栄えた土地で、そのトランスオクシアナの中心地がソグディアナであり、現在のウズベキスタン、東端の一部がタジキスタンである。
 ソグド農業の最初の発展は紀元前6〜5世紀で、次の発展期が紀元5〜6世紀であり、農耕地も都市も増大し、人口も増加した。仏教の極楽とか西方浄土、キリスト教のエデンの園など、いわゆる楽園は砂漠の中のオアシス、ソグディアナを指したといわれている。彼らは農業をするかたわら、東西の貿易を盛んに行っていた。
 人種的にはコーカソイドで、いわゆる「紅毛碧眼」具体的には白皙、緑や青い瞳、深目、高鼻、濃い髭、亜麻色・栗色ないしはブルネットの巻き毛で、言語は彼ら独自のソクド語を使っており、当時はソグド語が国際語だった。ソグド人たちは大量の馬を保持することによって、馬を商品とし、馬と駱駝の機動力に頼る東西交易に従事する一方、騎馬を中心とする軍事力を持つ軍事集団を備えていた。
 しかし、紀元706年ウマイヤ朝のアラブ軍がこの地方に侵攻してきた。その後9世紀にはサーマー朝がおこり、ブハラを中心にスンニー派のイスラム文化を普及させ、人々はそれまでのゾロアスターなどの宗教からイスラム教に変わっていった。10世紀にはトルコ系のカラハーン朝が成立、中央アジアのイスラム化が更に進んだ。その後、西遼のキアラキタイ朝が成立、セルジューク朝、ホルムシャー朝と著しく政権が変動する。
 しかし、最大の出来事は1220年、モンゴル軍がブハラ、サマルカンドを攻撃したことであろう。この時、街は完全に破壊され、人口の4分の3以上が殺されるという壊滅的な被害を受けた。
 我々はサマルカンドでソクド人の築いた町の跡、アフラシャブの丘を見学した。そこは見渡す限り茫漠とした丘約200ヘクタールが続き、ところどころにラクダ草が生えているだけだった。当時は城壁で囲まれ、道は舗装され、水道が各家にひかれ、緑にあふれていたといわれていたソグディアナ。給水設備を破壊され町は崩壊したようだ。西方浄土、キリスト教のエデンの園などといわれた楽園がこの有様、何も言えずに立ち尽くした。
 
    かっての浄土の街土埃灼けており     廣瀬邊邊

 アフラシャブの丘を見た後、アフラシャブ博物館を見学した。アフラシャブの丘の麓、タシケント通り沿いにあるこの博物館には、アレキサンドロス大王時代のコインをはじめ、ゾロアスター教の祭壇や偶像など、アフラシャブの丘から出土品が数多く展示されていた。中でも7世紀の領主の宮殿跡から発見されたというフレスコ画を見て驚いた。これはチャガン(タシケント付近)での婚礼の行進が描かれているものであるが、敦煌、莫高窟で見た壁画とそっくりの書き方だった。莫高窟の壁画が多くはソクド人が描いたという説の正しさを確信した。

4、ティムール
 14世紀に、カザフステップからトルコ系のウズベック族が南下してきた。1370年にはティムールが現在のウズベキスタンを支配、都をサマルカンドにした(ティムールという呼び方はペルシャ語で、ウズベック語ではテムールというらしく、マリアはテムールといっていたが、ここではティムールと言うことにする。)ティムールはモンゴル部族の1分枝の出自で、ウズベック族ではないが、ティムールの人気はウズベキスタンでは高いようで、ティムールが生まれたシャフリサーブスの街を見学したが、この街は15世紀後半、ブハラのアブドール・ハーンによってほとんど破壊されたが、破壊されたまま遺跡は大切に保存されていた。そしてこの街は勿論、サマルカンドでも、また首都のタシケントではレーニン像に変えて、街の中心に彼の巨大な銅像が建っていた。
 「ジンギスカンが破壊し、ティムールが再建した」といわれるように、今のサマルカンドのレスタン広場といわれる場所に公共の広場を作り、アフラシャブの丘から街を移し、ティムールの時代に街は再建されたようだ。
 ティムール時代には数々のメドレセやモスクが作られた。メドレセというのは神学校で、文字や知識、イスラム教の布教などに大いに貢献したものと考えられる。現在、世界遺産に登録され、観光の目玉となっているのは、この頃以降建設され、あるいは修復されたものが大部分のようだ。それらの多くは偶像崇拝を拒むイスラム教独特の、幾何学模様、花、アラビア文字などで装飾され、14世紀から16世紀に焼かれたといわれる青いタイルが貼られたものだった。巨大なメドレセやモスクは、現在も宗教的、或いは色々なことで使われているようだった。我々がヒヴァで泊まったオリエント・スター・ホテルも神学校を改造したものだった。
 この頃は、社会が安定し、文化が発展していった。特にティムールの孫のウルグベクは政治家というより学者というタイプの人で音楽、神学、歴史学に造詣が深く、特に天文学は、現在でもウルグベク天文台の基礎といわれる6分儀の地下部分が残っており見ることができた。この6分儀は当時地上の部分と合わせると40mの高さがあり、弧長は約63mという巨大なものだったとのことである。ここでの観測をもとに1年間の長さを推測した値は、今日の精密機器で測られた値との誤差が1分にも満たない正確さであったとのことである。
 ウルグベクのメドレセでは貧しい家の子供たちのため、数学や天文学が教えられた。この天文学は17世紀半ばにはヨーロッパにも伝えられ、評価を得ているとのことである。こうして「花咲けるサマルカンド」と謳われるようになった。ウルグベク天文台跡の展示室には、ウルグベクの言った言葉がロシア語と英語で書いてあった。その一つを紹介すると、「知識を求める1時間は、寝ずにお祈りするより貴重である」
 彼はイスラム教僧侶団によってその中には騙された彼の息子も含まれていたが、殺されてしまい、そして天文台も保守的なイスラム教徒により破壊されてしまった。1512年ウズベック族のシャイバー朝がティムール帝国を滅ぼし、その後もこの地方は各民族入り乱れ目まぐるしく政権の抗争が続き、1924年にはソビエット連邦の支配下にもなった。

5、新しい風
 中央アジアで諸民族の興亡がくりかえされたこの間に西欧ではルネッサンスが起こり、また蒸気機関の発達などで産業革命が起こり、国民国家、大航海時代を迎え、帝国主義の時代となり、世界は完全にヨーロッパ中心に動いていく。そしてこの中央ユーラシアの国々もその渦に巻き込まれていった。しかし、生産力を飛躍的に上げ、大衆に幸福をもたらすという近代の夢は、悪夢に転換し世界的大戦争や巨大開発、環境破壊という破局をもたらした。
 また、資本主義体制に対抗して、ロシア、中国で設立された共産主義政権という歴史的実験は無残な失敗に終わった。そして199112月のソ連邦解体、1990年代から本格化した中国の「改革・開放」路線がなされた。
 しかし、これにより、今までソ連邦内にあったカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスなどが独立した。何よりも大きなことは、中露の国境が確定し、また、中国とカザフスタン、キルギス、タジキスタンとの国境が確定したことであろう。これによりこの地方も今までの「緊張と紛争」の地帯から「安定と発展」のベルトに変わりつつある。
 そして2001年には上海協力機構(SCO)が設立された。これはユーラシア大陸の大国であるロシアと中国、そしてカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの中央アジア4カ国の計6カ国が加盟する地域協力組織である。イラン、インド、パキスタン、モンゴルがオブザーバー加盟国になっている。また、ベラルーシ、スリランカが「対話パートナー」となった。この上海協力機構はオブザーバー加盟国を含めると世界人口の40%を占め、かってのモンゴル帝国の版図をほぼカバーする巨大な地域機構である。この上海協力機構が今後どう発展するか分からない。勿論、中露の覇権主義が気になるところであるが、中央ユーラシアに新しい風が吹いていることは間違いない。
 ブハラの北方サマルカンドの間にナヴォイ(16世紀の詩人の名前)というところに建設している、いわゆる経済開発特区Navoi Free Industrial Zone を視察した。まだ、建設されて間がないようで550ヘクタールの予定地の多くは、区画のみで空き地だった。その中のエンビ管やプロピレンの管を製作している工場を視察したが、まだ、工場が稼動し始めたばかりのようで試作品を作っている段階だった。この工場の機械は中国製とのことだった。この他、イタリアの紙オムツの会社があり、韓国が薬を生産し、サムソンが20ヘクタールを取得し、車の部品や化粧品を作る予定で、この他シンガポールがTVアンテナ、ソーラの工場を作る計画とのことだった。水の問題が一番気になったが、水はザラフシャン川から取水しているので大丈夫とのことだった。日本の工場進出の話は残念ながら聞かれなかった。
 この開発が上海協力機構と直接関係あるかどうかわからないが、こういう開発特区は今後ますます増えていくだろう。北のカザフスタンには5カ所あると聞いた。

6.ウズベキスタンで感じたまま
 今までウズベキスタンを理解していただくため、歴史を駆け足で振り返ってきたが、次に、旅行中ウズベキスタンで感じたことを述べたいと思う。ウズベキスタンはロシア語とウズベック語しか街では通じないので、街の声を聞くのはむずかしい。そのロシア語もソ連統治から20年たつと話せない人も出てきているようだ。でも、ウズベック語は国民が皆話せるのでしょうとマリアに言ったら、「そうでもないですよ」と自分を指した。マリアはロシア語と日本語はうまいが、ウズベック語はガイドに必要な程度で、英語力も我が団長より落ちるようだった。
 訪問する前からの関心事の一つはソ連の統治下にあったのでロシア、そして20年以上も統治しているカリモフ大統領について、国民はどう思っているかだった。サマルカンド国立外語大学の学生と話し合った際、それとなく聞いたり街で感じたところでは、両者ともにおおむね好感をもたれていて、あまり厳しい批判は聞かれなかった。
 何故かとマリアに聞いたところ、多分、ソ連統治下でも現地の人に統治させていたからではないですかとのことだった。そういえば、イスラム教のモスクは各所にあったが、宗教を否定している共産政権の統治でもイスラム教を完全には弾圧することもなかったのだろう。ロシア正教の教会も1、2カ所見かけた。日本の朝鮮の統治方法とは全然違うのを感じた。
 しかし、現在ウズベキスタンでは、ブハラの南あたりから産出するガスをロシアや中国に輸出し、また、石油の生産もあるようだが、各都市ではガソリンが不足しているようで、我々がシルクロードを走行中も、給油待ちの車が数少ないガソリンスタンドに行列していた。製油所の設備が不足しているとのことだった。
 また、私の下着変えが少なくなったので、マリアにどこかにスーパーはないかと聞いたところ、サマルカンドまで待てますかとのことだった。自分で洗濯して干すと40度の気温と湿気のなさですぐ乾く。もういいですと言ったところ、買わないですむならその方がいいですよ、いいものはありません。といわれた。独立後、日本その他の投資により、豊富な綿花を使った繊維産業も建設されているが、まだ産業として成熟していないようだ。
 ロシア時代は、綿花、金、ウラン、天然ガスなど1次産品をそのままの輸出することが多かったのだろう。そういえば、東南アジアでよく見かける、Tシャツを千円で3枚、5枚と売りつける売り子のおばさんも見かけることがなかった。売っていたのは、ラクダの毛で編んだショールや手編みの毛の靴下などであった。
 しかし、シルダリア、アムダリアの上流にタジキスタンが巨大なダムを作った影響に併せてソ連時代綿花の生産を拡大させるため、運河で水を引いたことにより、シルダリア、アムダリアの水量が減り、アラル海が干上がり湖水の面積が2割くらいになってしまった。湖底が干上がったため、漁業が出来なくなっただけでなく、むき出しになった湖底から乾いた砂と塩が舞う砂漠と化してしまったようだ。我々は見る機会がなかったが、パン・ギブン国連事務総長がそれを見て、人間が自然を破壊した典型的な惨状だと嘆いたと聞いている。
 カリモフ大統領についても、ウズベキスタン共和国として独立する前からであるから23年位続いていることとなる。権不十年という、10年権力を持つとどうしても腐敗するという言葉があるが、実態は分からない。しかし、マリアは色々なことはあっても、100の民族を束ねていくので大変なのですよという好意的な反応だった。
 さて、対日感情はどうなのだろうか。タシケントを朝散歩しているとき、タシケントには中央アジア唯一の豪華な地下鉄があると聞いていたので、駅だけでも見ようと思って片言のロシア語で切符を買わずに中を見せてくれと頼んでみた。あなたは?イポンスキーと答えると、どうぞと通してくれた。駅は大理石がふんだんに使われ、天井にはシャンデリアが下がっていた。流石はタシケント(石の街)といわれるだけあると思ったが、出てくると地下鉄の路線図を示して、しるしを付け、ここの駅が綺麗だとロシア語で説明してくれたが、ほとんど分からない。時間がないので、スパシーバ、ダスビダニアと言って別れたが、日本人に対する好意だけは感じた。
 バザールも2,3見学したが、果物、野菜などは豊富だが種類はあまりなかった。それに対し、香辛料の種類がやたらに多いのに驚いた。チョルスバザールはオールドバザールとも呼ばれ、タシケントでも古くからある大きなバザールだった。またタキといって道の交差しているところに多くのバザールがあったが、これはシルクロードが東西だけでなく南北にも走っていたことを如実に示していて興味深かった。

7、日本人墓地
 タシケントで日本人墓地に参拝した。戦争直後、ソ連は第2次世界大戦で失った若者の労働力をカバーするために、日本人60万人を拉致し、わずかな食料が支給され、強制労働をさせられた。そのうちの25千人がこのウズベキスタンで働かされたそうである。これは明らかに国際条約違反の行為であるので、とロシア人のマリアが言った。細かい資料は隠蔽しているので分かりません。しかし、ウズベキスタン各地13箇所に1300人の墓があると説明してくれた。
 我々が訪問したタシケントの日本人墓地は、大きな墓地の1画にあるのだが、綺麗に清掃されており、亡くなった日本人抑留者79名の名前を刻んだ墓標と記念碑があった。イスラム教では骨の移動が禁止されているので、ここに土葬されたようだ。シベリアの極寒地よりもここの方がまだ良かったのでしょうね。と言ったら、マリアが「しかし40度の炎天下で働かされたのですよ」と反論された。墓守のおじいさんが座っていた。あまり愛そうのよい感じではなかったが、頭が下がった。



     墓参り日本人抑留者土葬して      廣瀬
 
抑留者らは道路、駅の建設、石油の掘削など色々な労働に駆りだされたようだ。その一つとしてナヴォイ・オペラ・バレー劇場の建設に従事させられた。この劇場は1500人収容できる大きな劇場で1947年に完成した。
 しかし、1966年タシケントで直下型の大地震が起こった。他の建物は多くの被害を受けたが、この劇場はほとんど無傷だったそうである。「さすがは日本人が造った劇場」と評価を得たようだが、サマルカンド国立外国語大学教授胡口靖夫氏が調べたところ、日本人が駆りだされたときは、ほぼ劇場の骨格はできていたそうである。従って、うれしい誤解なのかもしれない。
 しかし、このナヴォイ・オペラ・バレー劇場はどんなところか見たいと思って、墓地参拝のあと、劇場へ行ってみたが、生憎何も公演していなく閉まっていた。受付で幹事とマリアが日本から来たから中を見せてもらいたいと交渉しても、らちがあかない。その後、多少費用がかかりますが、と言いマリア一人で行って、2万スム(約1200円)渡したところ、ロビーだけなら見せると入れてくれた。
 休憩ロビーにはタシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズの各地のスタイルでレリーフが施された素晴らしい内装だった。中もさぞ豪華なのだろうと想像できたが、残念ながら中には入れなかった。

 今回は中央アジアの始めての旅行で、この他にも書きたいことが沢山あるが、この辺で筆をおきたい。旅行は必ずしも快適とはいえなかったが、色々と勉強になり和気藹々楽しい旅行だった。旅行中マリアや幹事他同行の皆様に大変お世話になった。感謝して終わりとしたい。

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