2011-01-12

鴫原弘明様

4回目の成人式を迎えれば、体力の「衰え」は仕方ないとしても足腰などの「痛み」が始まると、考える力や纏める力まで萎えて来ます。

自分の身体でありながら自分の自由にならないこの現象は、よく言われる「身心一如」が原因なのでしょう。そしてその痛みが伴う老化が人間を気難しくしたり、苦を避けたがる認知症の遠因になるのかも知れません。

そう言いながら今年の賀状で、長寿が「自己目的」になった風潮に対し私なりに異を唱えました。所が、それに関して驚いたことに、最近の新聞紙上の書評で“早くから現実に即して善悪の意味を考えて来た村上龍は「歌うクジラ」で、不老不死の遺伝子が見つかり理想社会が実現したはずだった22世紀の日本から現代の格差社会の危うさを照らし出した”とありました。

それに、昨年は娘の舅と女房の義兄を続いて亡くしたので、両人は生前自分の置かれた社会の中で、我が人生をどう捉えていたのだろうか、との思いを馳せました。自分にとって大切な相手の死は、単なる生物学的な終りでなく、遺族には生前に結んだ「絆」が心の中に生き続けています。死者と生者は親しく交流しています。

こうした体験を通じつくづく感じることは、自分も余す所僅かになったのに、なぜこの現実社会はこうも「生き辛いのか」という無念さです。どうして我々人類は「争い続けるばかりで、仲良く出来ないのか」という残念さです。もっと人生は、喜びや楽しみがあってよいはずという感慨です。

それに対しそもそも不完全な人間が創った社会だからと言えば確かにそうなのですが、それでは空しい道徳論となり嘆き節にもなって生産的ではありません。これを克服するには、原因となっている「優勝劣敗」という俗的競争観の見直しが重要だと考えます。近代社会は「自由と平等の社会」と言っても、同時に勝つか負けるかの淘汰の「競争主義、個人(中心)主義社会」です。本質は個と個が分裂した自由の名の下の合い争う「無縁」社会です。

従って、強者(エリート)でなく生き残るに苦しむ多数の我々弱者が心すべきは、そうした強い者勝ちの価値観に「惑わされず巻き込まれず」、人との比較より自分らしさ、自分が納得出来る道を日常の生活態度として選ぶことにあると思います。それが自分のことは自分の責任で決める本当の「自立の精神」だと言えます。加えて大切なのは、そうした生き方の共鳴者作りだとも考えます。

ただ長く生きるだけでは空っぽの人生で、時と場合には「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」を覚悟する生き方の方が充実していると思えてなりません。

冒頭述べた通り、体力が日増しに衰えて来ましたが、それでも「考えることに終りなし」ですから、焦らずそれ相応がよかろうと、自分に言い聞かせています。

死の受容は、人間だけの問題で容易な業ではないからです。

今年も貴兄との絆が更に深まることを願って止みません。

森谷仁朗拝(政経3年次)

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