「正法」を忘却した最高裁             平成23107日    

         ―原発差止訴訟の事例から―

                            一国民  奥野眞敏

 全国各地域の原子力発電所において、過去、 大小の事故が多数発生しているにも不拘、原発差止訴訟において、最高裁は「安全性(注1)は検証されている」として、原告の申し立てを排除してきた。その結果、核燃料の処理技術も確立されていない状態で原発は稼動し続け、今後、使用済み核燃料の蓄積を増大させ続ける。長期の安全な管理保管のための国家計画はあるのであろうか。最高裁は将来世代や今後生まれてくる未来世代の幸福をどのように考えているのであろうか。
 国民の健康リスクよりも経済を優先する最高裁の判決により、国民の人格権や人権は深い損傷を受けてきた。原発による事故リスクを覚知しながらその稼動を容認してきた最高裁の責任は計り知れない。
 人格権よりも経済(原発)という「公共の福祉」に重心をおく最高裁の判決を、われわれは正当なものとして受け入れることは出来ない。
 「如何なる法律問題に対する解答をも自ら評価することなく、純粋に主知主義的な手段で実定法から発見できるとする」法学上の諸傾向があるが(ラードブルフ、1955104)、これは、最高裁の既承通り、法実証主義とよばれる対応である。最高裁においては、いまこそこの法実証主義を離脱し、「正法」(注2)に沿った配慮をすべき時期に来ているのではないのか。原発という処理技術も確立されていない情況においては尚更のことである。
 われわれ国民は、最高裁による行政に追従する判決の下で、原発を起点とする「生命の危険とリスク」に晒されているのである。

以下、月刊誌『世界』20117月号、『日本の司法は原発をどのように裁いてきたか』海渡雄一弁護士の記述を参考に、最高裁の判決がいかに国民の人格権を軽視したものであったかを茲に指摘しておく。

最高裁判決の例

 1.もんじゅ原発訴訟のケース
 日本原子力研究開発機構(以下、開発機構)の高速増殖原型炉の事故歴。
 @    199512月、ナトリウム漏出・火災事故
 A    20105月運転を再開。
 B    8月、使用済み核燃料を新しい核燃料と交換する炉内中継装置が炉内で落下。これの引き上げには、爆発を起こさぬよう、万全が期された。僅かな操作ミスがあっても、大事故に繋がりかねない情況にあったが、幸いにして、爆発事故には至らずに済んだ。
 2003127日名古屋高裁金沢支部は、原告(地域住民)による原子炉設置許可処分の取消の申立てを受け、同設置許可の無効判決を下した。判決は、以下3点における違法性を認めていた。
 @    1995年の2次冷却材漏洩事故、
 A    蒸気発生器伝熱管破損事故、
 B    炉心崩壊事故に対応する基本設計への違法性、である。 
 つまり、原子力安全委員会が「安全審査基準は守られている」と主張した「安全審査の過程」には、看過しがたい過誤・欠落があるとして、その過程には違法性があると同金沢支部は結論付けた。「原処分がそのままでは維持できないもので違法なもの」であると事実認定をしたのである。
 ところが、この高裁の事実認定を、2005531日、最高裁は、高裁による事実認定の判決を覆す挙に出た。
 この後の20108月、炉内中継装置が落下するという事故が発生したのである。
これの意味するところは、「基本設計」に安全審査の違法性が認められた炉であるにも関わらず、最高裁の逆転判決があり、これがため開発機構は廃炉の決断をせず、その使用継続をする結果となったことにある。
 この最高裁の判決は、日本国憲法において人権が「公共の福祉」に劣後するためと思われる(憲法第13条後段)。電力という「公共の福祉」に過剰な重心がおかれた結果であろう。
 このことで、地域住民や国民の「人格権」までもが軽視されるという事態が生活社会にもたらされた。電力会社ならびに国の政策に最大の善があるとする最高裁の招いた「人格権」の軽視をわれわれは看過してはならない。

2.柏崎刈羽原発1号機のケース
 1979年に原子炉設計許可処分取消を求める行政訴訟が新潟地裁に提訴された。
 @   1994324日、一審判決、
 A    20051122日、控訴審の判決がなされ、上告中であった2007716日に中越沖地震が発生し、原発の細管・機器など多数が破損した。
 B    この事態を受けて、住民側は最高裁での口頭弁論の開催を求め、最高裁も国側に答弁書の提出を求めた。
 C    しかし、2009423日、最高裁は訴訟を終了させた。
  この際、最高裁は上告の理由はないとしつつ、「原審の口頭弁論終結後におきた中越地震について・・・中略・・・法律審としての当審の性格、本件事案の内容、本件訴訟の経緯等に鑑み上記の判断を左右するものではない」として、訴訟を終了させたのである。
 本件の安全審査では、当該地震の海域の活断層は見落とされていた。原子炉の耐震設計は最大450ガルの揺れを前提としていたが、中越地震では、1700ガルの揺れがあった。これは、伊方原発訴訟(19921029日最高裁判決)のとき判示された「看過しがたい過誤欠落」に該当するが、柏崎刈羽原発1号機の訴訟では、「この事件は、法律審であるから法律上の判断しかしないとして、看過し難い過誤と欠落の事実を前提に判断することを」拒否したのである。
 これが法実証主義に偏重した最高裁の体質であり、且つ、行政追従型対応と指摘しておく。これらの判決により、「国民の人格権や人権」が結果として軽視された。
 原発は大小の事故を勃発させながらも稼動停止されることなく、国民には生命へのリスク要因として存在し続ける。これは最高裁の判決がもたらした結果であり、「最高裁由来リスク」ともいえるものである。

浜岡原発訴訟のケース
 2002425日、静岡県と全国の住民約1000名を申立人として、浜岡原発1〜4号炉の運転差止を求める仮処分が申し立てられた。
 原告らは、「これまでの安全審査で想定された以上の地震動が原発を襲う可能性があること、そのときには原子炉の配管系や圧力容器の案内管などが同時に複数破損したり、制御棒の挿入に失敗したり、電源が失われて非常用電源設備さえも破壊される事態」も充分想定できると主張した。このような情況下では、原子炉の冷却は、当然、不可能となり炉心溶解事故に発展しうる。
 これらの結果、地震災害と原発の炉心溶解による放射能災害(地震・原発複合という複合被害)が周辺住民を襲うことにもなる。
 原告団・弁護団は、安全性にかんする科学論争の結果、被告側主張を凌駕していたが、2007726日の静岡地裁の判決は、原告側の全面敗訴とした。
 判決直前に中越地震が発生したため、新たな証拠の提出のため、原告側は、弁論再開を申し立てていたところ、裁判所は「再開の理由はあるが、自分たちの任期内に判決を言い渡すことは難しくなる。中越沖地震は公知の事実として採り上げることも可能だ」として、弁論再開の申し立てを取り下げるよう促した。
 このため、原告と弁護団はその申し立てを取り下げたが、裁判の判決は、中越沖地震についての言及は一切なく、同地震は、結審後の事象であり、この地震は発生していない時点を前提として終結させたと注釈した。
 これは静岡地裁による騙し討ちのごとき卑劣なやりかたであったといって良い。このようにして裁判所は住民の人格権への配慮を停止する。このようにして、「公共の福祉」を第一義とし、「人格権」との比較衡量は回避され、国民の人格権は侵害されていく。
 この判決はまた行政側に追従せんがための詭弁であり、「正法」からの判断逃避という法実証主義の表れであるともいえるのである。

志賀2号炉民事差止訴訟のケース(被告:北陸電力)
 @20053月、地震調査委員会の報告書では、原発近傍においてM7.6程度の地震発生の可能性があると指摘。
 A2006324日、金沢地裁判決は、「被告がこの地震発生の可能性を考慮しないままに発電所の耐震設計をしていた」ことを認めた。
 Bこの事実から、金沢地裁の井戸謙一元裁判長は、原告の主張を全面的に認め運転中止 命令を出した。その後2011422日の毎日新聞にて、井戸氏は、「住民の利益は、生命・身体なのだから、公共性を考慮したとしても、一企業の経済的な利益より優先される」とのコメントを残している。
 しかし、驚くべきことに、名古屋高裁金沢支部は、2009318日に、金沢地裁の「志賀原発2号炉の運転中止命令」を覆し、同地裁の一審判決を取り消した。
 原告が、「耐震性に対する新指針」の判断における問題点として指摘していたこと;
 @「国が新指針に基づく耐震設計のバックチェックをし、国が安全であるとしたものであるから」との判断の実際を、高裁は真摯に再検討しないまま、運転中止命令を覆した。  
 A2009331日、最高裁は内容に踏み込むことなく、原告らの上告を棄却した。司法は、国の安全判断に検討を加えることもなく、行政に追従したのである。

 上記のこれまでの判決の内容を鑑みる限り、最高裁の原発にたいする姿勢に大きな危機感を抱かざるをえない。最高裁は、電源三法に最善の「公共の福祉」が備わっているとの前提で、国の決定や国の発表する安全性を検証することなく、敢えて技術的検討を怠ってきた。その結果として、予防原則に基づき、国民の人格権を擁護することを蔑ろにしたのである。つまり、国民を放射能もれなどのあらゆる核のリスクに晒しているのである。
 ここに将来世代に対する最高裁の果たすべき責任は重大であり、こんにち人格権の絶対性を改めて斟酌するのであれば、この時期をおいて他にない。いまこそが「公共の福祉」に偏った法秩序規範の偏在性を是正する良い機会なのである(奥野、2011101-120)。最高裁は、国民とその将来世代の人格権をどのように護ろうとしているのであろうか。

 注記
() 安全性について:
  日本に於ける大きな問題点は、炉体自体というハード面のみの強度であり、以下、4点についての安全基準を所持していないことにある。
@      狭い土地の一箇所に複数の原発が並列設置されていることへの配慮
A      MOX燃料が使用されていることへの対策、
B      テロによる事故などに即応体制が整備されてないこと、
C      核廃棄物を数万年間、安全に保管する技術と場所の確保がないこと等、である。
  すなわち、@、Bのケースでは、いずれかの1基が重大事故、または核テロによる原因で爆発を起こした場合、
 並列設置されている他の炉体にも接近出来なくなることが充分に考えられる。この場合、すべての炉の制御が不能
 となり、次から次へと爆発を繰り返すことが想定される。同時に、核テロの場合にも、どのような即応人員体制が
 あるのか、安全性の論議は全くない。AMOX燃料であるため、ヨウ素やセシウムだけでなく、プルトニウム、ス
 トロンチウムなども周囲に飛散する。炉体の設計も低濃度原発用であり、MOX燃料用の特別設計にはなっていな
 い。Cについては、核物質の処理技術以前の問題であるが、核廃棄物の保管場所もないまま、核燃料を使用すると
 は、最早、自殺行為に等しいではないか。
  これらの結末として、MOX燃料使用炉で爆発事故が発生すれば、福島の比ではない広範囲に亘り汚染が広がり、
  最悪、周囲300500KMにおいて人間が居住出来なくなる事態も想定される。

(2)自然法(法哲学)は、実定法を超越する法の法源として、法の理想形態を示すものとであり、その理念は常に実
  定法の動向に何らかの意味を与え、舵取りをする立場にある(我妻、1965883)。
  したがって、裁判所は法の本質を究め法の理念を明らかにし、法の在りようを自然法の理念からも解釈すべ 
 きなのである。これらの考え方に沿う判断をすることが、「正法」に従った判決となる。
  また別の言い方をすると:「自然法の理念は、法(実定法)を制御する規範として存在する。法の解釈には条文の
 解釈のみならず、法に内在し同時にまた実定法よりも高次の規範として、その判断基準となる「正義」や「道徳律」 
 が時代を越えて存在するというものである(尾高、19556-11、野田、1958126)」。

 参考文献
 我妻栄、1965、『新法律学辞典』有斐閣 
 奥野眞敏 2011『環境権実現化の展望―自然環境保全の法的側面からー』成蹊人文研究第19
 尾高朝雄、1955、『法の究極にあるもの』有斐閣
 海渡雄一 2011「日本の司法は原発をどのように裁いてきたか」『世界』7月号岩波書店
 菊池洋一 2000「建設技術者の体験談-こわ~い原発の話-」『週間新社会』1010日号
 菊池洋一 2001 『原子力の技術は未確立』1030日 講演記録 於:三重県海山町
 菊池洋一 2001 『原発はテロにも地震にも耐えられない』1019日 講演記録 於:江戸川区小松川ファーム
 菊池洋一 2002「福島原発は欠陥工事だらけだった」『週間朝日』920日号 
 小山裕章 2011『原発のうそ』扶桑社新書
 田中泰義 2004 『海洋温度差発電』221日 毎日新聞
 野田良之、1958、「現代自然法」『法哲学講座第5巻(下)』有斐閣 123206
 広河隆一責任編集 2011「日本の原発」『DAYS JAPAN6月号
 広瀬隆 2011 『原発列島』513日号 週間朝日
 ブルーノ・ペロード(IAEA元事務局次長)2011 インタビュウアー木村正人『東電の招いた人災』産経新聞 612日記事
 ラードブルフ、グスタフ 1955、阿南成一訳『法哲学入門』アテネ書房

inserted by FC2 system