スリランカ紀行

廣瀬 行夫

1.スリランカへの旅ファイル:Ce-map-ja.gif

2011年12月3日から12月10日までの8日間アジア・ビジネス研究会でスリランカを旅した。この会ではインドに15年前に訪問したが、スリランカを訪問するのは初めてだった。現在スリランカに行くのは、スリランカ航空で成田からスリランカの中心都市コロンボまで直通航路があり、簡単に行くことができる。
 スリランカはインドの南東にある島国で、古代からインドとの繋がりが深く、インド大陸から仏教、文字、稲作など各種の文化を輸入し独自の文化を築いた国である。そういう意味では、中国大陸から朝鮮を経由して、或いは直接、同じく仏教、文字、稲作など各種の文化を輸入し、独自の文化を開花させた島国日本と似ているともいえる。そこでこの紀行文では日本と比較しながら、この国をレポートしてみようと思う。

スリランカは北海道の8割くらいの大きさの小さな島国である。そして、そこには7つの世界遺産があり、北海道の約4倍の2000万人強の人が住んでいる。スリランカSri Lankaとは、光輝く島の意味で、我々のガイドは幸福な人々が住む島というような意味だと説明した。この国は地震、水害など自然災害の少ない国だとガイドは説明したが、全部で23万人以上の死者を出した2004年のスマトラ沖地震では、スリランカでは津波により35千人以上の人が亡くなっている。ということは、3.11の東日本大震災の津波の日本の死者、行方不明者1万9千人よりはるかに多い。これは警報もなく、突然だったためと推察され、お気の毒に感じたが、その後の復興状況は東部に行かなかったので良くわからなかった。
 インド洋上に浮かぶスリランカは赤道に程近い熱帯に属し、我々が訪問した12月はスリランカでも比較的涼しい季節であるが、それでも30°を越すこともあり、日中は大体27°〜28°の気温だった。しかし湿度が低いのでそれほど暑いとも感じなかった。

スリランカでは宗教は自由のようだが、一般には仏教国といわれている。概略、仏教徒が人口の70%を占め、残りをヒンドー教徒が10%、イスラム教徒8.5%、キリスト教徒11,3%である。仏教徒はシンハラ人、ヒンドー教徒はタミール人が多く、イスラム教徒はムーア人、一部はマレー人とのことである。キリスト教徒の場合は、西洋人と地元人の混血が多く、シンハラ人やタミール人もいるとのことである。

2.最初の都

スリランカでは、小国家が分立していたが、紀元前5世紀にインド北部から移住してきた王により最初のシンハラ国がアヌラーダプラにつくられたと言われている。従って統一国家の成立は日本の倭国より数百年以上前ということになる。
 我々の旅行もアヌラーダプラから始まった。地図で見るとアヌラーダプラは島の北部の中央にあり、何故こんなところにという気がしたが、行ってみて分かった。小高いところに登ると各所に湖が見える。ここは水資源が豊富なところなのだ。日本も稲作中心に国家が形成されたわけで、古代の王朝は稲作を中心に権力を作ったのであろう。
 そして紀元前3世紀になって既存のアニミズム的な宗教に、仏教を取り入れた。日本が仏教を取り入れたのより千年近く前ということになる。仏教は殺生を嫌う稲作民族には適した宗教なのだろう。街のあちこちにダーガバ(仏塔)や仏像を見ることができた。
 しかし、この都が1400年の長きにわたり続いたというのは驚きであった。日本でもこんな長く続いた都はない。都は仏教の一大センターとなり、遠く中国からも留学生が訪ずれたといわれている。こうした繁栄を支えたのは大規模な稲作があったからだろう。
 しかし、5世紀に一時期、シーギリアの岩山に王宮を作ったこともあるが、その後もアヌラーダプラに都が続いた。しかし、11世紀半ばから南インドのチョーラ朝(タミ−ル族)の侵入を受け、都はボロンナルワ、16世紀末にはキャンディへと移っていった。我々の旅行もバスによりその道を通って、ヌラーダプラ、シーギリア、ボロンナルワ、キャンディへと移動し、その仏教遺跡、王城跡など遺跡群を見学した。

3.仏教

スリランカに仏教が伝ったのは、紀元前3世紀インドからで、いわゆる個人の修行を重んじる上座部仏教が伝った。この上座部仏教がスリランカからタイやミヤンマーにも伝わったとガイドは説明した。

日本に仏教が伝わったのはそれから千年近くも後で、中国、朝鮮を経由で文字その他多くの文化を伴い伝えられた。インドから中国、朝鮮を経由する間に仏教も大きく変わった。日本の仏教はいわゆる大乗仏教で、日本に伝わってからも、氏族、貴族、武士、一般庶民に布教される間に、種々の宗派が生まれ、また、釈迦だけでなく、如来、菩薩、観音、天、羅漢などいろいろな形の仏像が祈りの対象とされるようになった。

しかし、ここスリランカでは、釈迦そのものを祈りの対象としているようで、釈迦の骨や歯を祭った仏舎利、仏塔などと釈迦の座像、立像、涅槃像などが信仰の対象となっており、釈迦が悟りを開いたという菩提樹の樹も信仰の対象のようだった。日本のように各種の仏像彫刻を楽しむというわけではないが、各寺で磨崖像を含め、色々な形の釈迦像を見学することができた。スリランカ全土で寺の数は8400あるとガイドに説明されたが、そのいくつかは世界遺産になっていった。
 仏教は宗教でなく哲学だとガイドは言っていたが、どの宗教も最初は哲学だったのであろう。それが時代とともに、革新的な僧侶が現れ新しい教義を追加したり、権力と結びついたり、民衆と迎合したりし、或いは芸術と結びつき、複雑化していったのであろう。勿論、弊害もあるが、それが文化なのかもしれない。 

面白いのは、スリランカに仏教を伝えたインドでは仏教があまり普及せず、現在はヒンヅー教が主流であり、日本に仏教を伝えた中国は現在、道教、儒教、共産主義という妖怪の世界であり、韓国もキリスト教が強い。

スリランカと日本は仏教国という意味では似ているが、日本の場合は神道の影響もあり、また、廃仏毀釈などもあって、実際の信者はあまり多くなく、葬式仏教的な色彩が強いのに反し、スリランカの方が敬虔な信者が多いように感じた。実際に僧侶になるには出家し、妻帯もしないで、修行に励んでおり、世間でもそれなりに尊敬されているようである。敬語も僧侶だけに使われるのがあるようである。信者は普段から寺や僧侶を敬い寄進を行い、その代り葬式をあげるのはただとのことである。日本とは大分違う。
 寺に入ると、帽子と靴を脱ぐことになっていた。お堂の中を歩くのは靴を脱いで歩くのはむしろ快適であるが、砂利道を裸足で歩くのは慣れない者にはつらかった。世界遺産ということは、信者以外の観光客も来るので、境内くらい靴をはかせても良いと思ったが、ホテルに帰ったら火照った足がむしろ気持ちが良かった。

4.アーユルヴェーダ

アーユルヴェーダはサンスクリット語で「生命の科学」「生きる知恵」ともいわれ、北インドで4000年〜5000前に生まれたもので東洋医学の基礎になったものである。スリランカには仏教とともに伝えられたものだが、インドに行ったときはアーユルヴェーダのことは話題にもならなかったが、スリランカでは仏教と同じで本家のインドより、盛んに行われているとのことである。
 そこで、キャンディで旅行仲間5人とどんなものか、体験してみることにした。部屋に入ると、まず裸になって色々な薬草をいれた油で体を浸され、ベッドに寝かされて、全身を丁寧にマッサージされた。その後、木箱のようなもので覆われたところで頭以外の全身を高温で熱せられた。それが終わると、お湯で全身を流し終了する。時間は全部で1時間半くらいだったろうか。
 これで、薬草の効果で体がどう変わったか、一回では分からなかったし、また、他の場所でのアーユルヴェーダのやり方がどんなものかは分からないで一概には言えないが、医学というより、いわゆる観光客用にアレンジしたサウナつき、薬草入りのオイル・マッサージという感じだった。英語が通じますとのことだったが、GOODとかOKぐらいの片言だけだった。しかし、多少のリラクゼーションにはなったかもしれない。

5.米

 稲の生育は長江の周辺で始まったといわれているが、それが、中国南部、インドを経由してスリランカにも伝ったのであろう。一方日本には中国大陸北部を通って朝鮮半島経由で日本の弥生時代に伝わったといわれている。稲は豊富な水とある程度の規模の部族とその部族内の協力が必要である。その意味ではスリランカも日本も稲の生育に適していたのであろう。
 スリランカに最初の王朝ができた紀元前5世紀にはすでに稲は栽培されていたのであろうから、稲の栽培が始まったのもスリランカは多分日本より大分早いのであろう。
 スリランカは熱帯のため、稲の生育が早く、特に南部は二毛作で収穫は一斉に行うことはないようで、バスの中から田植えの風景も見られた。しかし、一つの田の大きさがどこも小さい。日本でも弥生時代はもっと小さかったのであろうが、日本の場合は、棚田などを除いては一つの田の大きさが次第に大きくなってきている。このスリランカに来て、各地の田の大きさを見ると機械化による合理化はとても難しいという感じがした。
 少し前まで、スリランカでは米を輸出していたが、最近は輸入しているというガイドの説明だった。そういえば、方々に荒れた田んぼを見かけた。賃金は日本よりスリランカは大分低い筈であるが、それでも一桁も2桁も違う規模で生産された他の国で生産された米には価格的に敵わないのだなと感じた。この状態が続けば、日本同様、里山の風景が喪失される危機にあるであろう。淋しいと感じた。
 どこへ行っても、この米を使ったライスがあったが、米の質は日本と大分違う。パサパサした細長いインディカ米で、ねっとりとした日本の米とは違う。どちらが良いと一概にはいえないが、インディカ米では寿司は握れないし、納豆、生卵、海苔などと一緒に食べる気はしない。従って私の嗜好には合わないのだが、カレーやチャンハンにはインディカ米が向くのであろう。ここではどこへ行ってもライスとともに各種のカレー料理が楽しめた。
 メソポタミアからインド北部に伝わった小麦粉文化によるナンもインドから伝わったのであろう。ホテルのビュッフェにはおいてあったが、スリランカでは主流はやはり米のようだった。

6.植民地

16世紀の初めから20世紀半ばまで、西洋諸国の圧倒的な技術力、軍事力により、アジア諸国は植民地化されていった。植民地化されなかったのはアジアではタイと日本だけだったので、当然、自然にやさしいこのスリランカも植民化された。最初はポルトガル、そしてオランダ、イギリスと支配国が変わっていった。1815年イギリスは最後の王朝の都キャンディを攻め落とし、全島を植民地化した。
 一方、アジア諸国の植民地化の動きを感じていた日本はご存じの通り「脱亜入欧」政策で欧米の科学技術を積極的に取り入れ、幸運にも恵まれ、日露戦争でロシア艦隊を撃破した。しかし、その後欧米にならって、列強と覇権を争ったため、第二次大戦では手痛い敗北をきっした。
 イギリスはスリランカでコーヒー、ココナッツ、ゴムなどのプランテーションを行った。そのための労働力として、南インドからタミール人を多数移住させ、これが後にシンハラ人とタミール人との争いのもとにもなった。しかし、コーヒーのプランテーションはコーヒーのさび病などの蔓延で失敗し、紅茶に切り替え、今では紅茶はセイロン紅茶として世界的なブランドとなっている。
 我々はその紅茶畑と紅茶工場見学のため、ヌワラ・エリアへ半日以上かけてバスで旅をした。気分が悪くなるくらい曲りくねった道をバスで1時間以上登ったであろうか。そこは見渡すかぎり一面の紅茶畑だった。気温も高地のため涼しく22°くらいで快適であった。日本の紅茶の木より高さが低いように思えたが、全山美しい緑だった。工場で説明を受けたが、全部手で摘んでいる、2度乾燥させるのだとの説明だった。その後、各人何がしかの紅茶を買って帰った。
 第二次大戦後、アジア諸国は次々に独立したが、スリランカも1948年2月4日に独立した。しかし、1956年自由党のバンダーラナーヤカ政権がシンハラ語を公用語とする法案を成立させると、タミール側が強く反発し、これが、タミール・イーラム分離独立運動の切っ掛けとなり、のちに内戦にまでになったようだ。

7.天人合一

2009年5月19日、25年続いた内戦も終結し今回の旅行ができたわけだが、北部や東部に行かなかったせいもあるかもしれないが、行った先では内戦の傷跡は感じられず、身の危険も感じることもなかった。ただ、寺の中の猿を見たとき、冗談のように、ガイドにこちらの猿はシンハリ系でおとなしいが、あちらの猿はタミール系で人のものを取ったりするから気をつけなさいと注意された。実際のタミール人を知らないので何ともいえないが、何かまだ偏見が残っているのかなと感じた。
 しかし、総じてスリランカの人たちは天人合一というか、自然に溶け合いやさしい感じがした。道を歩くと犬が寝そべっているが、どの犬も首輪をしていない。吠えたり、かみついたりするのを見たことはなかった。
 犬だけではなく、ここは自然の楽園のようで、鳥も猿も牛も人間と一緒に生活しているという感じである。人々もいつも笑顔で手を振ると答えてくれた。
 下流には鰐がいますという河をボートで遊覧したが、各種の鳥が見られた。残念ながら、カワセミくらいしか名前が分からなかったが、爬虫類も河岸に多く住んでおり、船頭が指をさし教えてくれた。道路を走ると椰子の木、バナナの木があちこちに見られた。道路では椰子の実を割って汁を飲ませるところもあった。石村さんのおごりで椰子の実の汁を皆で飲んだ。

椰子の実を吸う十二月遠き島   廣瀬邊邊

 スリランカは野菜、果物が種類も量も豊富なところで、市場にも寄ったが、肉、魚、衣料品、雑貨などと一緒に、いろいろな野菜、果物が、所狭しと並んでいた。アーユルヴェーダの国だけあって薬草も豊富で薬草園も見たがいろいろな種類が見られた。
 キャンディでは民族舞踊も見学した。キャンディアン・ダンスというもので、タイやインドで見た踊りと似ているが、より素朴な感じがした。太鼓などの打楽器が主で、ボーカルと笛が加わって演奏されたが、弦楽器はなく、和音によりハモることはなかった。踊りもリズムカルの踊りで各地の伝統的な踊りをアレンジした感じだった。

8.象

象は20世紀初頭には2万頭いたといわれるが、イギリス人が象牙を取るため殺してしまい、現在は2500〜3000頭くらいしかいないとのことである。それでもバス旅行の途中で野生の象の群れを見ることができた。政府も象を保護しているようで、キャンディからコロンボへ行く途中には象の孤児院があり、そこへ寄った。そこには90頭強の象が飼育されていて、その内の1頭を日本にも贈ったと話していた。
 象は毎日決まった時間に河岸に水浴びにくる。観光客はそれを見るのだが、バナナを出すと喜んで鼻で吸い、口に運ぶ。こちらも警戒心がないのでそのまま出すと、象の鼻の感触をもろに手に感じた。象は鼻息が荒く、鼻は濡れているのだなと思った。別に汚いとも思わなかったが、そのままの手で食事をする気にもならなかったので、どこで洗おうかなと考えてしまった。
 キャンディでは、象にも乗った。象はインド、タイ、ミヤンマーなどでも乗ったが、決して乗り心地の良い乗りものではない。ドシン、ドシンと歩くたびに揺れる。しかし、背が高いので見晴はいい。象使いが「ダハー」「ダハー」と言うので「ダハー」ってどういう意味かと聞いたら「前へ進め」という意味だと教えてくれた。象の前で大きな声で「ダハー」言ってみようかと思ったが本当に動いたら困るので止めた。
 面白いのはこの国では、ヒンヅー教ではないので、インドのようにカースト制は感じられなかったが、象の世界にはカーストがあって、仏教寺院の象は別格で他の象と区別されているとのことである。
 日本では昔「……馬の糞」という言葉があり、どこにでもあるありふれたことを言っていたが、ここでは象の糞が街の方々で見られた。象の糞は大きいが、草食のためか、あまり臭くない。この糞を使って作った色紙も売られていた。

9.コロンボ

我々の旅行もコロンボに着いて1泊後、すぐにアヌラーダプラに行き、シーギリアロック、ボロンナルワ、キャンディ、ヌワラ・エリアなどを観光し、最後にまたコロンボに戻ってきた。コロンボはマンゴーの実る街という意味だそうだが、今はマンゴーなど街中のどこにも見られず、222万人の大都市である。ここは信号のある街ですとのガイドの説明だったが、そういえば他の街には信号がなかったことに気が付いた。しかし、首都はコロンボから15キロほど離れたスリー・ジャヤワルナブラ・コーテという舌をかみそうな名前のところに移っていた。
 コロンボの街は良く舗装されており、海添いには高層ビルが立ち並び、街中にはデパートもあるきれいな商店街もあった。コロンボもアジアの多くの都市にみられる車などの喧噪に包まれていたが、この国は車の輸入税が300%で100万円の車は400万円になる。従って車の交通量は少なく、バンコック、ホーチミン、上海などよりはまだ静かである。また、デリーやムンバイよりも清潔な感じがした。夕方海岸に出ると、多くの夜店が並んでおり。多数の人で賑わっていた。しかし、これまでの旅で感じた人々の素朴さはここではない。
 翌日、スリー・ジャヤワルナブラで議会の見学をさせてもらった。入口で何回も身体検査を受けたのにはうんざりしたが、議会の中は見学場所も良く整備されていた。議場は英国式で与野党が向き合う形で何か討議していたが、演説はシンハリ語なのか何もわからなかったが、社会保障について討議しているとのことだった。
 その後コロンボでノリタケの陶器工場と、縫製工場を見学した。ノリタケでは、この土地は陶器の製造には適している土なのだとのことだった。繊維産業はこの国のメインの産業になっているが、見学した縫製工場はイタリア人が経営していた。社長の話では、バングラディッシュなどより賃金は高いが、仕事が確実で期日を守ること、他のアジア諸国よりヨーロッパに近く、運賃が安く早く着くなど、ロジスティックの問題で有利なためにこのスリランカに工場を作ったとのことだった。たまたま、休暇でスリランカに来ていた社長のお嬢さんに工場を案内してもらった。社長室に比べて工場内は暑かった。すべて委託製造で自己ブランドはないとのことだった。
 見学のあと、イタリア・ボローニアのアイスクリーム製造機で作ったアイスクリームをご馳走になった。社長がこの機械は世界一だと自慢するだけあり、おいしかった。

10.スリランカで感じたこと

日本は今、人口減少社会に入っているが、スリランカでは現在も人口は増加しており、経済成長も2009年には3.5%増加している。しかし、都会と農村の経済格差も大きいと聞いている。そのため、都市に人口が集中してくるのであろう。我々のバスがスピード違反で捕まった。ガイドが何がしか警官に渡すと無事通過できた。ガイドに汚職はあるのかと質問したら、はっきりあると答えた。アジアの国はどこもこの問題に苦しんでいる。特にインドがひどいので、さもありなんと思った。

スリランカは現在、教育と医療が無料とのことであるが、教育と医療は生活程度が良くなると急激に経費が増え、また、タミール人との抗争があった影響からか15万人という、人口の割には大きな軍隊をかかえて、国家財政もこれから大変だろうと感じた。
 数年前ミヤンマーを訪問したが、同じ上座部仏教の国で、人柄も良く、対日感情良好で天然ガスと宝石が産出するということだったので、天然ガスと宝石が産出することまで、スリランカによく似ているなと感じた。ミヤンマーもやっと民主化が進み、発展の道にのってきたように思える。

スリランカも豊かな自然と人々の優しい気持ちを残しながらどう開発していくか。豊富な水や天然ガスを有効利用して、農村の電化をすすめ生活程度を向上させ、都市と農村の貧富の格差を是正することも大切だろう。汚職を少なくすること。紅茶以外でも各種の特産物を開発すること。繊維産業をはじめ、より多業種の企業誘致を行うなど、この国の課題も多いと感じた。
 この国の観光業は内戦終結後、前年比65%と伸びていると聞いている。喜ばしいことである。やさしい人たちの住むこの国が、さらに発展することを同じ仏教国として望んでレポートの終わりにしたい。

inserted by FC2 system