2012年5月14日
                        西郷隆臣君との別れを惜しむ

  西郷隆臣君のご息女、藤澤敦子様宛に「冒頭から恐縮ですがここの所体調を崩していた為、お父上が去る3月15日に逝去された報に接しながら、お悔やみの申し上げが遅くなりましたこと、何卒、お許し願います。学生時代に得たお父上との絆は、親友を越えた無二の心友で、打てば響くコミュニケ−ションの心地良さの間柄でした。それだけに数々の思い出が、私の胸の内に鮮やかに生き続けております。中で是非お伝えしたいのは「娘はどうやら俺に似た人物をフィアンセに選んだようだ。」とのくだりです。私は即座に「娘さんにとって君は理想的な男性のタイプだからだ。ジーンと来る話だね。」と応え、心を通わせました。ただそれでも心残りなのは、晩年に話し合えるチャンスを失った寂しさです。49日を過ぎれば、青山霊園で思い出を語ることでその埋め合わせをしたいと念じております。合掌」とのお便りを託しました。
  そこで納骨を確認後、同年次(政経3年次)で西郷君の畏友であった松平君と共に5月13日に霊園に出掛けました。墓前での思い出の最初は、西郷君の「経歴のユニークさ」で安藤思想に魅かれ、東大を中退しゼミに転入する程で、競争より文字通り問いを楽しみながら学ぶ、大らかな逸材であったことです。同時にスポーツも硬式テニス、スキーなど万能型で、正に文武両道の持主でした。又、健啖家兼酒豪で、私と杯を交わせながら、ある時「俺は西郷隆盛の血筋をひいているが、隆盛は豪放磊落に見えても、実際は神経が繊細であったらしい。」という珍しい話を聞かせてくれもしました。そうしたわけで西郷君は同年次の中でも精神的に大人だったが、それでも戯れ言で西郷君は私に「単細胞」私は西郷君に「なまこ」と呼び合っていました。逆に話に熱が入った際に、私が「これから半世紀後にお互い何処まで自分なりの信念を貫けたか、賭けよう」と持ち掛けました。西郷君はこれに大いに頷いたが、よもや触れないままで別れを告げるとは、思いの外でした。
  社会人になってからの西郷君は、入社早々から卓越した能力が認められ、世界を股に掛ける程の目覚しい活躍を見せました。中で特筆すべきは、ドイツ・ハムブルグ在住当時の安藤先生との交信で、著書「マックス・ウェーバー研究」278頁及び共著「マックス・ヴェーバー研究」68頁で先生は、貴重なコピーを入手出来たとして謝意を示されている経緯です。
  それでも、西郷君は一時アメリカから帰国した頃、同窓会の席上で「この競争社会の只中での安藤さんの教えは、我々には毒になる」と歯に衣着せぬ大胆さを披露しました。さすが先生もこれには苦笑されたが、私は西郷君に「君の真意は、強制されたこの競争社会の現実で、良心的に生きる事は、至難の業である旨を訴えたいが為のダイレクトな表現なのだろう、」と話した覚えがあります。
  その当時、確かに海外駐在は花形だったが、その影では単身赴任の過剰勤務によるやり切れない孤独感に連日襲われ勝ちだったようです。それに追い討ちをかけたのが時代の変化で、海外駐在は有能者が便利屋に成り下がり、有利な昇進コースが閉ざされて来た事実です。西郷君もその例に漏れず「若き時代の栄光」は薄らいで、帰国しても「浦島太郎」同然の人事異動が待ち受けていました。昇進のためには、相手を出し抜く手段をも辞せぬ生き方とは、全く無縁な西郷君は、嘗て「自分達の子供が大人になる迄には、この日本をもっと住み易い社会にしたいものだ。」と語りました。そこに西郷君の人柄の良さが窺われて心が洗われます。しかし、その西郷君は、企業戦士として、身心共にボロボロになるまで戦わされ、ついに「戦病死」で締め括りました。
  この悲惨な事実は、私達安藤ゼミ同窓生にとって痛恨の極みであり、且つ社会的にも大きな損失です。
  西郷君との別れが惜しまれてなりません。                      合掌

                                       森谷仁朗(政経3年次)

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