大連・旅順を旅して

廣瀬 行夫

 2009年9月2日(水)から6日(日)4泊5日で大連・旅順を旅してきた。
 以下大連・旅順で感じてきたことを書きたいと思う。


 大連は黄海と渤海の間にある遼東半島の最南端、渤海海峡の咽喉部に当たり、昔三山浦とよばれる小さな漁村に過ぎなかったが、ソ連が租借したとき、ダルニー(達里泥)と名づけ、日露戦争後日本が統治してから大連と名づけたとのことである。大連の人口は578万人。しかし、大連の地域は12,574平方キロ(新潟県の広さとほぼ同じ)と広く、そのうち市内の人口は316万人とのことである。

1.旅順
 我々は大連に着いた翌日、当初からの希望であった旅順にバスで行った。旅順といえば、我々の年代ではすぐに日露戦争が頭に浮かび、乃木大将とステッセルの水師営会見、廣瀬中佐などが小学校唱歌とともに思い出される。しかし、今の若い人は私の名前は廣瀬中佐の廣瀬だといっても「は?」ということになる。それどころか旅順といっても、旅順?大連の南西、大連??人にもよるであろうが、そんな感じである。
 もっとも最近「坂の上の雲」がNHKで放送され知名度は上がったかもしれないが、大連からは南西約40キロにある。現在は正式には中国の遼寧省大連市旅順口区となっている。しかし、現地の人も旅順といっているので、ここでは、旅順口ではなく旅順ということにする。
 旅順の歴史は長く、漢の時代から「沓津」「馬石津」「都里鎮」「獅子口」などと呼ばれていた。明王朝の初め、明の軍隊が遼東地区を回復すべく、獅子口に上陸、それを記念して、旅途平安、順調到達の意味から、獅子口を旅順に改称したとのことである。
 今回の旅行でも旅順港を見渡せるところとして行ったが、1881年、今から130年前、日本でも有名な清政府の李鴻章が、白玉山に登り視察した結果、旅順の軍事的価値を発見して大規模な軍港建設を始め「旅順を北洋の要塞」にしたのが旅順軍港のはじめのようである。1890年初冬まで修築した軍港、大型ドック、9つの軍艦修理のための工場、10基の海岸砲台をすべて竣工。当時、陸海軍人数が約15、000人にも達し、東アジア第1の軍港にまでになっていた。
 紆余曲折の末、旅順は今では又中国東北の最大の軍港となり、我々の旅行でも原則は視察の場所や写真撮影の制限が多かったようだが、衛星からの撮影が出来る今、規制は全く意味がないので原則は原則、行動は殆ど自由という感じだった。むしろ、天気にも恵まれ、黄海と渤海に囲まれた美しい景色を満喫することが出来た。
 1894年8月日清戦争が勃発、日本軍が清政府の北洋艦隊を黄海海戦で破り、庄河に上陸、11月に旅順を攻め落とした。中国側の資料によると日本軍はその後4ケ日間で中国の農民2万人あまりを殺戮し、世界中を驚かしたとある。イギリスの新聞「タイムズ」アメリカの雑誌「ニューヨークと世界」にも掲載されていたとのことである。真偽のほどは分からないが、我々、少なくとも私は全く知らないことで驚いた。
 その後、独仏露の三国干渉により大連、旅順は日本から取り上げられ、逆に1898年には、不凍港が欲しかったロシア政府は清政府と「旅大租借条約」「続旅大租借条約」を強引に結び、1904年日露戦争後、日本が植民地として40年間統治するまで、大連、旅順を7年間占領した。
 今回の旅行で日露戦争の激戦地、東鶏冠山や203高地のトーチカなどを見学した。その堅固さは想像を超えていた。何しろ6万人あまりの中国人を駆使してロシア軍は旅順にトーチカや砲台130あまりを修築し、その工事量は、当時ロシア国内最大の軍事要塞「セワストーボル」の6倍に相当するといわれている。
 しかも今はトーチカのある山全般に松が植林され、鬱蒼たる松林だったが、当時は禿山だったので前からの攻撃には無類の強さを発揮する。東鶏冠山では日本軍人9000人以上が戦死したといわれているのも無理からぬことのように感じた。
 しかし、一見して空からの爆撃などの攻撃には弱い感じがした。実際、この戦闘は大砲が威力を発揮し、主攻撃目標を203高地に転換して着弾観測点を確保して日本軍はかろうじて旅順を占領できたのだろう。203高地は日本軍死者1万人、ロシア軍死者5千人といわれている。しかし、こんな堅固な要塞も今では歴史的遺物に過ぎない。今の武器では全く役立たない。
 いずれにしても今から考えると大変な数の戦死者を出したこの戦いは何だったのだろう。朝鮮を失うことはわが国の生命線を失うことだということで始まった、日清、日露戦争。この戦争までは、自衛上やむをえない戦いだったという論者もいるが、果たしてそうなのだろうか。このおびただしい戦死者数を見ると何かむなしさがこみ上げてくる。
 そして、乃木大将が建てさせたという海抜が203メートルあることから「爾霊山」と名付けられた大きな砲弾の形をした石碑がむなしく建っていた。
 203高地は中国では、老爺山、后石山となどとよばれている。しかし、私のむなしさよりも自分の土地で日本とロシアが死闘を繰り広げた場所を中国人はどう感じているのだろうか。ガイドは何も説明しなかったが、「銘記歴史 勿忘国耻(恥)」という石碑が数ヶ所に建っていた。二百三高地塹壕跡にはそんな歴史とは関係なくムクゲの花が美しく咲いていた。
    ムクゲ咲く二百三高地塹壕跡  廣瀬邊邊
 
 ここはさすがに着弾観測点といわれるだけあり、旅順港全体の青い海、湾口の黄金山、老虎尾半島や軍艦であろう湾内の船舶もよく見えた。今ここは、森林公園となっていた。ソ連も中国もそれぞれ別の場所に大きなモニュメント「勝利塔」「中ソ友誼塔」などを造っていたが案内されなかった。
 水師営会見所を視察した。唱歌で歌われた水師営とはここなのだと思った。周りが石の壁の萱葺の小さな小屋だった。水師とは中国語で海軍の意味で、中国海軍の野戦病院があったところを利用したのであろう。唱歌で歌われた小さななつめの木も三代目とかで、申し訳ないように目立たず庭に植わっていた。
 旅順博物館を見学した。この旅順博物館は1917年に創設された旧日本関東庁博物館であった。満州に進出した当時の日本が大英博物館に対抗して、大博物館として中国内外から、8万点以上の収蔵物を集めたものだった。
 特に京都西本願寺の第22代目住職だった大谷光瑞がシルクロードから集めた「大谷コレクション」は新疆地区で出土したミイラを始め、数々の収集品があり見応えがあった。4年前、我々の旅行でシルクロードを旅し、莫高窟などを見学した思い出があったので、なお、その感を深くした。  
 この他、青銅器、古代玉器、貨幣、銅鏡、仏像、漆器、彫刻、書画などが多数展示されていた。また、終戦時に日本が残した狩野派の名画や横山大観の絵画などもあった。短時間ではあったが、学芸員の方が説明してくれ、非常に有意義だった。

2.東清鉄道
 旅順からの帰路、バスを空で帰し、旅順から大連までの列車に乗ってみた。この鉄道は東清鉄道と呼ばれ1903年から営業をはじめ、1907年日本が狭軌から広軌に改築したものだった。始発の旅順駅は1901年に修復され、残っている数少ないロシア風の木造建築の一つで独特の趣があった。
 通常、中国の列車は軟席(グリ−ン車)と硬席があるが、硬席しかない様だった。運賃は旅順、大連間は4.5元(約60円)。この4.5元は中国人にとっても安いのだろう。しかし、運行本数も少なく、いまだにディーゼル車が単線で走っていて、各駅で長く止まり何とものんびりした列車だった。お急ぎの方は車でということなのだろう。日本なら差し詰め廃止路線の候補になっている筈である。始発駅旅順では、ガラガラで発車した。
 旅順で野菜を売っての帰りだろうか、空の籠をもった数人のお婆さんと乗り合わせた。
 
    行商の老婆冗舌秋野菜     廣瀬邊邊

 見回りにくる車掌が日本人と見て珍しそうにそばにきたので話かけた。日本語も結構上手に話していた。この列車は何時間かかけてこのまま長春まで行くとのことである。仕事はそんなに大変ではないと話していた。採算など考えなくてよいのだろうか。何となくのんびりしている。
 5:時半頃だろうか、大連近くの途中駅で、突然、工場帰りであろう団体が大挙して乗り込んできた。この辺の会社は8:30amから5;00pmまで仕事をしていて残業はないとのことなので、多分近くの工場に働いていた人たちだろう。
 4人かけの席をわれ先に取ると4人ずつに分かれて、早速トランプが始まった。どんなルールか分からない。手持ちのカードが非常に多いので2組のカードを使っているのかもしれない。あたりのことは全く考えないかのように、中国人らしい大きな声をかけ、ゲームを楽しんでいるようだった。大変うるさい。
 車窓からは、初秋の山々、麦畑、玉蜀黍、すすき、盛りを過ぎた向日葵などが見られた。
 
    ディーゼルが単線を走る薄原  廣瀬邊邊
    

3.大連
 汽車で大連に帰った我々は、スイスホテルに宿泊、翌日は大連経済技術開発区を訪問し、担当者から開発状況の説明をうけた。大連は中国では環渤海経済圏に属し、東北地区でも沿岸開放都市として開発に積極的なところで、ここは1984年に特別区に指定され、計画面積404平方キロで、既に開発・建設完成面積は56平方キロという大規模なものだった。
 当初2000人の漁村が55万人の大都市に変貌していた。現在2200社が進出しているが、そのうち日本企業は東芝、キャノン、三菱電機など650社、駐在日本人は2000人以上ということである。IT産業などのハイテク産業、情報関連の企業が多いが、それだけでなく、石油化学工場をはじめ多くの工場が稼動していた。
 我々はその中の2社、大連平野服装有限公司と大連精工技研有限公司を視察した。大連平野服装有限公司は日本クロダルマ鰍ニ日本シンメン鰍フ共同出資の服装加工工場で従業員はピーク時には300名いたが、現在仕事量が減り、190名ということである。ということは、ベトナム、ミヤンマーなど更に人件費の安い国に注文が流れているのかもしれない。主な製品はユニホームのパンツ、ジャケット、ベスト、シャツ及び防寒衣などで、生産決定は、日本からの指示で、オーダー、デザイン、生地を決められて、出来上がった製品は全部日本に輸出している。社員は女性が多く、勤務時間は7:00から17:00まで、月給は1300元〜1200元とのことだが仕事が単調なせいか、従業員は流動的とのことである。
 大連精工技研有限公司は光通信に必須の光コネクター・光スイッチの製造をしている会社であった。年間売り上げ15億円弱、従業員200人、内女子が9割を占めている会社で、部品の現地調達は30%、基幹部品は日本からの輸入で製品は日本、欧米、中国国内などに出荷していた。
 全般に大連は日本との関係も非常に強く、輸出総額の31%が日本向けであり、また総額20%が日本から輸入しているとのことである。また、輸出企業50位までに、日本企業が23社を占めており、輸出総額に占める日本企業の比率は36.3%(2008年ETRO統計)とのことである。
 
 次の日は大連市内の自然博物館、星海広場、満鉄旧本社ビル、北大橋を見学、老虎灘で観光船に乗り、海から大連の町並みを見学した。当日は土曜日で天気も良かった為、中国人の家族連れも多く、観光地は賑わっていた。
 大連にいたことのある人には懐かしいやまとホテルも原型をとどめており、我々はそこでお茶を飲むことができた。また、旧満鉄の本社屋も2007年に満鉄創立100年を記念して復元し、見学させてくれた。ホールや総裁室など隆盛だった当時の面影を偲ぶことができた。
 市内にはプラタナスやアカシアの並木もあり、5月ころはきれいだろうなと感じた。                            大連の街は緑が多く、ロシアの占領時代に基本設計がされたといわれる中山広場を中心に放射状に道が整備されていた。特に9月10日よりダボス会議が開催されるということでよく整備されているようだった。三方を海に囲まれているため、空気もきれいで、北方の香港といわれる美しい街であった。
 
     ダボス会議の国旗はためき芙蓉咲く  廣瀬邊邊
 
 街は自転車が少ない。これは一つには大連は坂の多い街で自転車が乗りにくいためでもあるようだ。自動車の数は多かったが、道も広く、上海、西安や北京で感じたような渋滞はないようだった。高速道路も大分整備されている様で大連から旅順までも高速道路でスムーズに行くことができた。街には懐かしい赤レンガの家並みもまだ見られたが、旧日本人街など次第に取り壊され、新しい市街地に変貌していた。
 
     旧市街取り壊しの瓦礫秋茜      廣瀬邊
 
 夜は大連京劇団のショウを見学した。元東本願寺の建物を利用した「麒麟舞台」で京劇、雑技、ファッションショウが演じられていた。いかにも観光用という感じで、いろいろなショウを順番に見せてくれた。少女の演ずる雑技の体の柔らかさにはいつも感心する。
 
 次の日、朝散歩し、帰国の途についた。我々の泊まったスイスホテルの通りをへだてたところに広い敷地の労働公園があり、早朝散歩をすると、公園にはサルビアの花が咲き、犬を連れて散歩をする人、グループに別れ、太極拳やモダンダンスなどをする人などを見かけた。ここではホームレスはほとんど見かけることがなかった。ただ、みな適当に赤信号で渡っており、慣れないので大通りを横切るのに戸惑いを感じた。

    早朝の太極拳や吾亦紅  廣瀬邊邊
  
 13;30、大連周水子国際空港から帰国した。

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